法科大学院等特別委員会の議事録まだ?

 昨年11月のブログにも掲載したが、法科大学院等特別委員会の議事録は、文科省のHP上では未だ公開されていないようである。

 「最新の議事要旨・議事録・配付資料」のページはもとより、「これまでの議事要旨・議事録・配付資料の一覧はこちら」のリンクをたどっても、昨年3月からの会議における配付資料だけが閲覧可能になっているだけで、議事録は一切掲載されていないようだ。

 この特別委員会の前身である「法科大学院特別委員会」の議事録も見てみたが、H28.9.26開催の第76回会議までしか作成されていない。

 他の委員会を見てみても、将来構想部会や大学院部会などは、昨年10月、11月頃に開催された会議の議事録も公表している。

 要するに、法科大学院等特別委員会の議事録の公開が、突出して圧倒的に遅れているようなのだ。

 大体1回2時間くらいの会議で、議事録を文章に起こすだけでどうして1年以上もかかるのかとても不思議なので、おそらく、何らかの意図があって議事録公開を控えているのではないかと、疑念を頂かざるを得ない。

 ただし、議事や議論の大まかな内容は、「これまでの法科大学院等特別委員会における委員の主な御意見」という配付資料を見れば想像はつく。

 しかしこれまた、以前のブログで指摘したとおり、そこでの議論は、法科大学院等特別委員会の目的は、ずばり、法科大学院制度の維持で、それ以外にない。そして国民の皆様の為の法曹養成よりも、法科大学院制度維持が自己目的となり、予備試験制限を主張する場合等以外には当初の理念もどこかへすっとんでいるようだ。

 議事録がないので仕方なくその主な御意見を見て見たのだが、御意見にも3ランクがあるようで、①赤丸赤字の御意見、②黒丸黒字で太字の御意見、③黒丸黒字の御意見と、記載されている意見の表示が異なっている。もちろん①>②>③の順で重要度が設定されているのであろう。


 その中に、次のような赤丸赤字の御意見があった。

【法学部教育の在り方】
○ 良好な就職状況や就活スケジュールの前倒しの影響か、学部生が熱心に法律科目の授業を受けていないと感じる。早期から法曹志望が明確な学生だけでなく、身近な経験等をきっかけに法律の勉強に興味を持った学生も法科大学院志願者として取り込むためにも、学部段階で若手法曹による講義・講演を設けて法曹が魅力的な職業であることを伝えるなど、広報活動が必要。


 この御意見を赤丸赤字で重要表示している点だけで、もう、法科大学院等特別委員会は現実を見る力を持っておらず、委員会として終わっていると感じざるを得ない。

 職業は、確かに自分を社会の中で実現していく行動である。しかしそれは同時に生計を維持する手段であり、職業によって得たお金で自分や家族の生活を支えて行かなくてはならない。


 だからどんなにやりがいのある魅力的な仕事があっても、その職業のために必要な資格取得が費用対効果に見合わなければ、親の地盤を継げて将来の経営安定が保証されている人間か、生活できなくてもやりがいを重視する奇特な人間以外は、その職業を目指すことはないと考えるのが素直だろう。

 やりがい・(経済面を無視した)魅力だけをエサにして、有能な人材が確保できるのか、ヘッドハンティングができるのか、考えて見ればすぐ分かるはずだ。

 また、昨今、優秀な志願者が激増して、どんどん難易度が高くなっている医学部に関して、志願者を増やすために、文科省や厚労省は、医師の仕事が魅力的であるとか、医師のやりがいを大々的に広報などしただろうか?

 そのようなことをしなくても、医学部人気は高まっているのだ。

 2016年6月13日付け週刊ダイヤモンドが、医学部人気の過熱の原因に関して、記事の中で次のように分析している。

(以下、週刊ダイヤモンドのHPより引用)
 なぜ、医学部受験はここまで過熱し、難易度が高まっているのか。
 まず、理由として挙がるのが、医師になれば、食いっぱぐれがないことだ。その気になれば、70歳になっても働くことができるし、医師は激務とはいえ社会的地位も高く、勤務医であっても平均年収は1000万円を超えてくる。
 それに加えて、08年以降、有名私立大の医学部が、相次いで数百万円単位で学費を値下げし、受験しやすくなったことだ。
 次に、これまでとは異なる受験者層が、医学部に流れてきていることが挙げられる。
 同じ理系でも理工学部などを卒業し、製造業などに就職してもシャープや東芝のように今の時代、いつ何時会社が傾くか分かったものではない。それは文系もしかりで、医師と並ぶ最難関資格の弁護士資格を取得しても、食べていけない弁護士が続出する時代だ。
 消極的な理由だが、世の中に医師ほど安定して収入が得られる資格がなくなり、優秀な層の流れ着く先が医学部ということが、過熱している要因の一つといえる。
(引用ここまで)


 極めて素直な分析で、説得力がある。法科大学院等特別委員会のエライ先生方でも、反論・論破することは容易ではあるまい。

 私なりに一言でまとめれば、医学部人気が高い理由、医学部志願者が激増している理由は、結局は、医師の資格の価値が高いからだ。

 決して、仕事が魅力的だとかやりがいがある、というだけの話しではない。


 となれば、法曹志願者を増やすことは極めて簡単である。

 医学部志願者が増えたのと同じ方向性をとればよいのだ。

 法曹資格の価値を高め、医師並みに安定した生活が可能な資格にすれば、どんなに試験が難しくても、放っておくだけで志願者は増え、優秀な学生が目指すようになる。合格率が3%程度しかなかったにもかかわらず、旧司法試験時代の受験者が、(丙案導入時の受け控えを除いて)増加の一途であったことからも、この事実は明らかだ。

 そして優秀な法曹志願者が増加することは、国民の皆様が権利を守る最後の砦としての司法に優秀な人材を導くことになるから、国民の皆様の利益に適う。

 このように至極簡単な方法がありながら、法科大学院等特別委員会がその方法を敢えて提言しないのは、資格の価値を高めるために司法試験を厳格にして合格者を減らしてしまえば、法科大学院が経営難に陥ると考えているからだろう。

 法科大学院の経営難と、国民の皆様の利益と比較して、どちらが大事か、小学生でも解る問題だ。
 その点で、あっさり道を誤り、法科大学院制度維持に固執する学者のセンセイ方を、私は信用しない。

 

 

 

 

臨時総会の代理人選任届の罠 ?


 昨日のブログで、私はいわゆる谷間世代の会費減額措置を大阪弁護士会臨時総会で決議することに関して反対する意向を示しているが、仮に私が反対意見を記載した臨時総会の代理人選任届を提出しても、私の届けは臨時総会では反対票としてカウントされないおそれがあるようだ。


 現在配布されている臨時総会(平成30年3月5日)議案書には、表紙をめくったところに、大阪弁護士会宛の代理人選任届としての郵便ハガキが綴じ込まれている。この代理人選任届には、各議案に対して賛成・反対・棄権の意見表明欄が設けられているため、一見その反対欄に○印を記入して提出すれば、反対票として扱われそうに見える。


 だがしかし、大阪弁護士会の総会では、総会に出席できない場合には、そう簡単に執行部の議案に対する反対票は投じることができないのだ。


 なぜなら、意見表明欄の下に「ご注意」との記載があり、
 ※1として「会則第39条第4項により、議決権行使の代理権に制限を付することはできず、上記○印により表明された貴殿の意見は代理人を拘束しません」と書かれている。つまり反対意見を表明して代理人選任届を提出しても、仮にその代理権を行使する会員が賛成として行動すれば、反対意見の代理人選任届も賛成票としてカウントされてしまうことになるのだ。
 さらにご丁寧なことに、
 ※3として、「代理人の氏名の記載がない場合は、代理人の選任を会長に一任されたものとして処理します。」との記載がある。ちょっと最新の会則を見ていないので、そのように処理する明文の根拠があるのかどうかは疑問だが、現実の運用はそうなっているらしい。


 つまり、臨時総会に出席できない人が、執行部の議案に反対票を投じようと思っても、臨時総会に出席して反対意見を投じてくれる代理人を自分で見つけて、その人の名前を特定して代理人選任届を出さないと、反対票を投じることができない仕組みになっている。


 もちろん、開催通知には、「議案に反対又は棄権の意見を表明されている場合、会長が把握している限りにおいて、総会出席予定で反対又は棄権の意見を表明している会員を代理人として選任するよう努めますが、かかる代理人が見つからない場合には、賛成票として行使されるおそれが高いため、代理人を選任しません。」と書かれている。

 これは「反対の意思を表明した代理人選任届が賛成票に使われないような運用をする」との注意書きで、この措置は反対意見を賛成意見票として使わないことには役立つが、実際には反対意見は(行使する代理人を選んでもらえず)結局死票となるから、議案反対の意思を総会決議に反映させることには無力だということだ。つまり、「(反対する総会出席代理人が見つからない場合には)反対票を賛成票にすり替えるような露骨にひどい扱いまではしませんが、反対票には死んでもらいます」ってことだ。

 また、会長が把握している限りっていったって、会長個人の人脈だって全会員に及んでいるはずがないし、会長に向かって「あんたの執行部の議案には反対だ」、と総会が開催されていない時点から、前もって伝達する奇特な方はそうはおるまい。

 となれば、反対票を投じる意見を持つ代理人が会長に見つかる可能性は極めて低いだろうから、代理人選任届において反対意見を表明してもそれが総会において、反対票として反映されることは事実上、極めて困難な状況が設定されていることになる。

 そんなややこしい話をせずとも、書面投票制度か電子投票制度を導入すれば一発で解決するはずだ。導入している会社もあるのだから、大阪弁護士会だけができないはずがないではないか。


 また、そうでなくても1人の代理人が10個まで代理行使できるとして、統一して行使しなくてはならないという規則はなさそうだから(未確認です。すみません~仮にそのような規則があっても改正すればどうでしょうか)、1人の代理人に賛成票7、反対票3を割り付けて、きちんと行使してもらえば済む話だと思うし、その方が、確実に会員の意見を反映した臨時総会になると思う。

 もっと簡単にするなら、代理人は委任者の意見に拘束されないという会則39条4項を撤廃すればよいのではないか。ちなみに日弁連の会則にはそのような代理人は委任者の意見に拘束されないという、会則39条4項のような規程は、多分なかったように記憶する。

 もしそうだとすれば、大阪弁護士会の約10倍の規模を有する日弁連で不統一行使が出来るのだから、大阪弁護士会では事務処理の都合上、不統一行使は出来ないのです・・・という言い訳は、通らないだろう。


 敢えて嫌みな言い方をすれば、大阪弁護士会の総会決議において執行部の提出議案が否決されることが(ほぼ)ないような仕組みが整えられている、といっても言い過ぎではないだろう。


 こんな罠のような総会代理人選任届の仕組みを、大阪弁護士会はいつまで放置しておくのだろうか。

 どこかで大掃除が必要な気もするね。

 


 私は反対したにもかかわらず、大阪弁護士会の常議員会では、圧倒的多数の賛成で、いわゆる谷間世代(司法修習中に国からの給費がなされなかった世代)に対して、大阪弁護士会の会費を概ね10年間で84万円分減額する、議案を臨時総会に提出することが可決された。


 そして現在、配布されている大阪弁護士会臨時総会(3月5日13:00~開催)の第11号・12号議案として提出されている。


 私は、かねてから谷間世代が国から修習中の給付を受けられなかったことは国の政策により引き起こされた問題であり、国に対してその救済を求めるのであれば筋が通るが、弁護士会が救済に乗り出すのは筋違いだと主張してきた。


 ところが、執行部は、常議員会で谷間世代が可哀相ではないかという情に訴える内容を交えて説明を行い、常議員の多くは、「確かに可哀相だし会費が余っているのなら良いのではないか」という判断で賛成されたようだ(執行部による会派への根回しがないと仮定した場合の話だが)。


 この度、中部弁護士連合会(以下「中弁連」)の日弁連執行部との意見交換会の議事録を見せて頂き、やはり谷間世代の若手の多くの方は、弁護士会に対して救済として会費減額を求めるような筋違いの主張をしてはいないのだということが確信できた。


 中弁連の議事録の中で、若手カンファレンスに出席しその様子を日弁連執行部に伝えている富山の65期の先生は、このように発言されている。


 「また、返還の減免にかえて弁護士会費の免除という案があるそうですけれども、これにつきましては、(若手カンファレンスでは)独立した弁護士ならともかく、勤務弁護士や組織内弁護士の救済にならず、雇い主を潤すだけだという消極的な意見が大勢を占めました。」


 この若手カンファレンスの報告のように、弁護士会費の減額措置を求めているわけではなく、むしろ弁護士会費を減額しても大した救済にならないし、そのような施策には消極的だ(平たく言えば「反対だ」)と主張する声も、当事者である谷間世代からは、相当強くあるのだ。


 以前のブログにも記載したが、谷間世代からの要望もない、谷間世代の要望の有無について調査もしていない、立法事実も存在しない、統一的連続的な法曹養成の基盤という説明ともそぐわない、谷間世代以外の会員に負担をさせて救済するという不公平を新しく作りだす、何より給費制復活・谷間世代救済を目指して頑張っている委員会・本部の活動に水を差すに違いない、このような救済策を、何故執行部が詭弁や屁理屈までこねて意固地に通そうとするのかと、私は疑問を呈してきた。


 若手カンファレンスの意見を取り入れるなら、上記の反対意見に加えて、「実際に谷間世代の救済にもつながらずボス弁が漁夫の利を得ることになる」、という理由もあげられることにもなろう。


 このように谷間世代の弁護士が、弁護士会費の減額を求めていないのに、敢えて屁理屈をこねてまで、大阪弁護士会執行部がその措置をとろうとするのであれば、考えられる理由は限られてくる

 一つは、大阪弁護士会執行部が状況の把握もできないお馬鹿さんの集まりだったという可能性、

もう一つは、大阪弁護士会執行部が「自分達が谷間世代の心情を忖度してやったのだから、当事者の意見なんぞ聞かなくとも、会費減額が正しいはずだ」、と極めて独善的な思考をする人達の集まりだったという可能性である。

 しかし、私から見る限り執行部の先生方は、弁護士としては極めて優秀な方々であることは認めざるを得ないし、また優秀な弁護士である以上、訴訟でも証拠に基づかない独善的な主張をされないのと同様、会務においても独善的なお考えはおそらくされないと思われるので、これらの説は採りがたい。

 そうだとすると、結局、谷間世代救済のポーズをとって弁護士会費を減額させることにより、給費制復活・谷間世代救済を目指して頑張っている委員会・本部が行っている国に対する活動に対し、結果的に水を差す(沈静化させる)こと、が隠れた本当の目的なのだということが一番得心がいくように思う。

 少ない司法予算の制約もあってだと思うが、修習生に対する給付金制度導入と引き替えに、日弁連は谷間世代の救済を切り捨てることに合意した。そして、自ら一度は切り捨てに合意した以上、谷間世代の救済を、再度(本気で)国に求めるような「ちゃぶ台返し」は、さすがの日弁連執行部としても、おそらくはできなかったのだろう。

 かといって、日弁連執行部としては、日弁連会員の一万人(20%以上)ほどを占める谷間世代に対して、正直に、「将来の修習生のために、苦渋の選択で君たちの救済を切り捨てました」とも言えなかったのではないか。

 だからこそ、小原会長の常議員会での説明にも「法曹三者の信頼を維持するため」という、一見不可思議な理由が出てきたのだろうと推測する。


 しかし、もしそうだとすれば、給費制復活、谷間世代救済について日弁連は形式的には支援するように見せかけながら、一方で単位会を使ってその実質的な弱体化を積極的に進めることになるのだから、真剣に給費制復活・谷間世代救済に向けて活動されてきた方々に対して、極めて欺瞞的な行為だと言えないだろうか。


 もし日弁連執行部が自らのメンツや、主流派支配の維持にこだわらずに、きちんと事実を説明する勇気があれば、状況は変わったかもしれないと私は思うのである。


 いずれにせよ、私は、谷間世代に対する正当な救済につながるか疑問の多い、筋違いな弁護士会費減額案には反対である。

 なお、先日の常議員会では、日弁連が谷間世代の救済について検討に入ったとの情報も出されていた。

ますます混迷を深めていくように思えてならない。

寒蘭

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 いつの頃からか私の父親は、日本寒蘭を趣味にするようになっていた。


 洋蘭、特に胡蝶蘭はよく知られているが、日本寒蘭の花を知っている人はそういないのではあるまいか。
 

 寒蘭は、九州・四国・紀州という比較的暖かな地域で自生するそうで、私の田舎は和歌山県南部にあることから、紀州寒蘭が自生できる地域でもあった。


 寒蘭の花は、外三弁は真っすぐ一文字に開くかまたはやや抱えるものが好まれ、後ろに反り返る形は好まれないし実際に見ても美しく感じない。
 側弁は蕊柱を抱えるように閉じるものがよく、開くとよくないとされる。実際に見ても側弁が開くとだらしがない印象があり、良い感じに閉じていると控えめな印象すら受ける。
 舌弁は昔は大きく広がらないものが好ましいとされた事もあったが、最近では広く大きく迫力があり、そのまま巻かない物の方がより人気があるそうだ。


 私の印象だが、良い寒蘭の花は、まるで鶴が空を大きく舞うようにも見える形をもっている。それでいて、洋蘭のように自己主張が強いというわけでもなく、極めて美しいにもかかわらずその美しさを自らは主張せず、控えめでありながら凛とした強さを感じる、今や絶滅危惧種の大和撫子に通じる端正な美しさを感じるものなのだ。

 蘭は乱に通じるとの格言もあるように、かなり父親は寒蘭に入れ込み、蘭小屋を建てて、熱心に世話をしており、それは今も続いているようだ。

 寒蘭の図鑑のようなものも父は買い込んであり、その中で見た、土佐寒蘭の「豊雪」は、さして寒蘭に興味もなかった私でも、息をのむ程の美しさをもっていた。

 「豊雪」の花は、全てが乳白色であり、形も申し分がない。天使が雪を使って戯れに作りだしたのではないのかと思うくらい儚げでありながら、俗世の塵芥に染まることは決してないという毅然とした佇まい。このような花を人間のような世俗にまみれた生き物が鉢植えにして所持して良いものなのか、と感じるくらいの美しさだった。


 30年以上も前に父親に見せてもらった、実物の「豊雪」も、やはり美しかった。


 現在インターネットで出ている画像では、私の記憶している「豊雪」よりも形が少し崩れているものが多く、また色も純粋な乳白色ではないものもあって、真の「豊雪」の美しさを十分に伝え切れていないと思うが、もし機会があれば、一度本物の「豊雪」を御覧になっても損ではないと私は思っている。


 もとより、蘭にも様々な種類があり、洋蘭や春蘭もそれぞれの美しさをもっている。

 しかし、洋蘭のように爛熟さを感じさせる花よりも、端正な美しさを感じる寒蘭の方が私の好みなのである。

別解について思い出すことなど


 確か中学校の理科の問題だった思うのだが、

 80℃のお湯500グラムと50℃のお湯300グラムを混ぜると、何℃のお湯になるのか、

という問題があった。


 一般的な解き方は混ぜた後の温度をX℃として、

 80℃のお湯が失った熱量は(80-X)×500  ・・・・・①
 50℃のお湯が得た熱量は (50+X)×300    ・・・・・②
 ①=②なので、

(80-X)×500=(50+X)×300

 これを解いて
 X=68.75℃

 というものである。

 しかし、私はこのような計算が面倒くさかった。
 定期試験にこのような問題が出た際に、私は、
 
 0℃を基準にすれば
 80℃のお湯がもっている熱量は500×80、
 50℃のお湯のもっている熱量は300×50
 この熱量を足したものが、混ぜた後の800グラムのお湯にも残っているはずだからと考えて、

 500×80+300×50=800×X℃
 と答案用紙に記載して

 X=68.75℃との回答を出した。

 この計算でも正しい答えは出せるのである。

 ところが、私の解答は、解答の数値は合っているものの、返却された答案には△が付され、その問題の半分の点しかもらえていなかった。

 担任の先生(たまたま理科を担当しており問題を出題していた)に、理由を聞くと、教科書にしたがって教えた解き方と違うからだと言われた。

 私は、黒板に自分の考え方を書いて説明し、級友の「この解き方の方が簡単や」、という声にも勇気づけられ、どうしてこの考え方ではダメなのかと先生に食い下がったが、「テストは教えた方法が身についているのか見るものだし、解答に0℃を基準にするとは書いていないから」、と言われ、結局あきらめた記憶がある。


 確かに定期試験には、教師が教えたことが身についているのか確認する側面もあるのだろうが、私が教師なら、習った計算方法以外の方法で正解を導いた生徒がいたら、おそらく、その生徒の探求心や独創性ある考え方を評価し、逆に誉めたのではないかと思う。


 このような小さなことを鮮明に覚えているのは、減点されたのがよほど悔しかったからなのだろう。

 そのこともあって、私は、大学や大学院で教える際には、できるだけ、学生さんの考えも尊重し、芽をふんだり、つぶしたりしないように気をつけているつもりである。

 元兵庫県弁護士会会長の武本夕香子先生が、クォータ制度が導入された日弁連副会長女性枠に会員からの推薦を受けて応募された.

 しかし、残念なことに候補者推薦委員会は、武本先生を、日弁連副会長を決める日弁連代議員会には推薦しないと決めたそうだ。


 先日のブログでも記載したとおり、大阪弁護士会の会員HPに女性枠副会長の推薦を求める告知が掲載される以前から、既に近畿弁護士会連合会では、女性枠副会長の候補者を決定していた、という、会員を完全にバカにしきったかのような一幕もあった。


 おそらく、候補者推薦委員会は近弁連が決定した候補者を推薦するのだろう。


 武本先生は、長年女性の権利問題に熱心に取り組まれており、自ら女性枠に応募しようと決意され、短期間に200名以上もの推薦者(応募するには50名以上の推薦で足りる)を集めた方である。
 個人的にも存じあげているが、人格・識見とも申し分なく、素晴らしい先生である。
 また、現実問題として、そのような方でなければ僅かな期間にこれだけの支援者を集めることは不可能である。

 ただ、武本先生が日弁連執行部を牛耳っている主流派に属していないことだけは事実である。しかし、主流派の主張全てに反対されるわけでもなく、是々非々できちんと理由があって賛成・反対を決めておられる。そのなかで執行部の痛いところにも、遠慮無く切り込む姿勢をお持ちだ。

 

 その武本先生が、男女共同参画の理念を実現すべく、自ら副会長になろう等の立場を表明されたのだから、実力も十分、やる気も十分で、特に推薦から外す理由が少なくとも私には見当たらない。
 女性の観点から広く意見を取り入れようとするのがクォータ制度なら、主流派に反する意見だってどんどん聞くべきだろう。女性の意見は聞いてもよいが、それは主流派に反対しない限度に限るというのでは、女性の共同参画をエサにした主流派の地盤固めにしかならない。

 もし、近弁連推薦の候補者が自ら女性枠副会長のポストを強く希望していたのであれば別だが、そうでなければ、やる気においては、自ら女性枠に応募しようと決意され推薦状を集められた武本先生の方に軍配が上がるだろう。


 しかし結論として、推薦委員会は理由も示すことなく武本先生に落選を伝えたそうだ。


 女性枠副会長に応募を決意して推薦状を集められた武本先生は、事実上立候補に近い行動をとられている。そもそも日弁連の言い分によれば、本来、女性の副会長立候補希望(実際には弁連等での推薦を受けても良いとする女性弁護士)が少なく、男女共同参画が実現しないからこそ女性優先枠を作ったはずではなかったか。


 少なくとも日弁連は、女性の副会長のなり手がいないという説明であり、副会長希望者は多いがその中に適任者が少ないとの説明はしていなかったはずだ。

 そうだとすれば、女性としての意見を反映させるべく事実上の立候補を行った武本先生こそ、女性枠副会長に相応しい人材といっても過言ではないはずだ。
 このように副会長になろうと希望する女性を理由も告げずに外すことは、それこそ男女共同参画に逆行する判断ではないかと思われる。


 推薦委員会が、何故武本先生を推薦しなかったのか、その理由ははっきりしないが、私は、主流派がイエスマンではない武本先生に難色を示したのではないかと考えている。

 結局、これでは、女性の共同参画を、いいお題目に使いながら、執行部の意向に添った副会長を増やしただけのように思えてならない。

 なお、ご存じのとおり女性枠(クォータ制度)副会長に対しては、通常の報酬月額50万円に加えて、特に支援費が月額20万円支給されることになっている。

 もしも、副会長女性枠が執行部の地盤固めに使われ、更に会費も使われるのなら、やってらんない気持ちになる会員もそこそこいるのではないだろうか。

死刑制度の存廃に関する主な論拠については、法務省がまとめた資料がある。
www.moj.go.jp/content/000053167.pdf

それによれば、

死刑廃止論の論拠としては
① 死刑は野蛮であり残酷であるから廃止すべきである。
② 死刑の廃止は国際的潮流であり、日本においても死刑を廃止すべきである。
③ 死刑は憲法36条が絶対的に禁止している「残虐な刑罰」に該当する。
④ 死刑は一度執行すれば取り返しがつかないから、裁判に誤判の可能性がある以上、死刑は廃止すべきである。
⑤  死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい。
⑥ 犯人には、被害者・遺族に被害弁償をさせ、生涯、罪を償わせるべきである。
⑦ どんな凶悪犯であっても更正の可能性はある。

とされている。

これに対し死刑存置論の立場の論拠としては
① 人を殺したものは、自らの生命をもって罪を償うべきである。
② 一定の極悪非道な犯人に対しては死刑を科すべきであるとするのが、国民の一般的な法的確信である。
③ 最高裁判所の判例上(最判昭和23年3月12日)、死刑は憲法にも適合する刑罰である。
④ 誤判が許されないことは、死刑以外の刑罰についても同様である。
⑤ 死刑制度の威嚇力は犯罪抑止に効果がある。
⑥ 被害者・遺族の心情からすれば死刑制度は必要である。
⑦ 凶悪な犯罪者による再犯を防止するために死刑が必要である。

とされている。

 私はどちらもそれなりに根拠があるように感じている。

 たとえ残虐な犯罪を犯し死刑判決を受けた者でも、真に悔悟し被害者へ可能な限りの慰謝の措置を行い、自らの罪の重さを自らの十字架として受け止め、従容として執行に向かう者に対しては、死刑が廃止されていれば・・・とおそらく考えるだろう。
 しかし一方、自分の愛する家族を冷酷に殺害された場合であれば、犯人を何度死刑にしても私の気持ちは収まらないようにも思う。


 敢えて死刑廃止論に存置論側から私見を交えて反論するなら、こうなるかもしれない。


① ある刑罰が残酷かどうかは時代や国民感情によっても異なる。被害者が死刑以上に野蛮で残酷な方法で殺害されている場合、野蛮で残酷な行為を行っているにも関わらず、何故加害者の生命だけは国家が保証するのか。本来守られるべき生命は何ら落ち度のない被害者のはずであり、それを国家が守れなかった場面で、さらにこの善良な人々の生命を奪った犯罪者の生命だけは国家が保証する、というのは、真の正義といえるのか。凶悪犯が猟銃を無差別に乱射している際に、その凶悪犯を特殊部隊が射殺する行為も死刑と同じく国による殺人であるが、新たな被害を防ぐという意味で正当防衛か緊急避難的に凶悪犯を射殺する行為を適法であると認めながら、射殺されずに逮捕された凶悪犯だけが刑罰手続きに載せられた途端、死刑は国家による殺人だから野蛮だとして生命を保証されることに、矛盾はないのか(ふと思いついた私見です~間違ってたらスミマセン)。

② 刑罰制度は国民主権のもと定められるものであり、その国の文化の程度、国民の意識等が異なれば、国によって刑罰制度も当然異なるはずであって、国際的潮流が死刑廃止だから日本も死刑廃止を行うべきと主張するのは、他への盲従ではないのか。日本国民の一般的な法確信が、一定の極悪非道な犯人に対して死刑を科すべきであるとする考えであるならば、これを無視することは相当ではない。

③ 最判昭和23年3月12日は、「死刑は、・・・まさに窮極の刑罰であり、また冷厳な刑罰ではあるが、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条(憲法36条)にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。」と判示している。

④ 誤判があった場合に回復し得ない損害を与えることは、程度の差こそあれ他の刑罰でも生じるものであり、死刑に限るものではない。また、現在の裁判制度のもとでは誤判は希有ともいうべきであって、そのような極めて例外的な場合を普遍化してことを論ずることは相当ではない。誤判の余地が全くない事件も相当あることを看過すべきではない。

⑤ 確かに死刑廃止の前後で凶悪犯の発生率が変わらないという主張もあるようだが、もともと死刑廃止論や死刑廃止は、比較的治安が安定している国や時期において主張され、実現されるものであるため、凶悪犯発生率の変化では死刑に犯罪抑止効果がないとまではいいきれない。

⑥ 被害弁償といっても金銭や謝罪では、どうしても慰謝されない部分が遺族側に残ることを、どう考えるのか。遺族の応報感情(簡単にいえば、犯人に悪事の報いを受けさせたいという感情)を沈静化させることも刑罰の目的に含まれるのではないか。刑罰制度が社会内で有効に機能するためには、刑罰は国民の規範意識に裏付けされていなくてはならず、国民が納得するためには罪刑の均衡も必要なのではないか。

⑦ 更正を誰が判断できるのか。死刑を廃止した後、何らかの理由で釈放された犯人が再度犯行に及んだ場合、犯人を死刑にしておけば助かった可能性のある被害者の生命をあまりにも軽視するものではないのか。


  このように、死刑存廃論双方に相応の論拠があるが、水掛け論になっている部分もあるように見受けられる。
  しかし、それでも敢えて死刑廃止を論じるのであればおそらく、団藤重光・元最高裁判事が主張するように、④の誤判の際に取り返しがつかないということが最大の論拠になるのではないだろうか
  取り返しがつかない被害を無実の人に与えるのは、全ての誤判において等しいが、死刑とその他の刑罰では、やはりその取り返しのつかない被害の次元が違うからだ。
    しかし、刑罰制度も国民主権の下では国民の意思に反して行われるべきではない。国民の法的確信が誤判のおそれから死刑廃止もやむなしと認容するようになれば、死刑廃止も実現されるべきということになるように思う。


    ただ正直申しあげれば、私としては、未だ、死刑は廃止すべし、死刑廃止やむなし、と自信を持って言えるだけの確信を私の内部に持てずにいる。
   
   
    確かに日弁連や弁護士会が、人権擁護の観点から死刑廃止の旗振りをすることにも一理あるとは思う。しかし、一方、私のように死刑を廃止すべきとまで自信を持って断言できない会員も相当数あると思う。
    おそらく、死刑の存廃問題は、その人の、人生観や価値観、場合によってはその人の哲学まで踏み込んだ決断を迫られる問題なのだと思われる。
   
   
    そうだとすれば、多数決で日弁連や弁護士会の意見として死刑廃止を求める宣言を行うことは、果たして良いことなのかという疑問を私は禁じ得ないのだ。
   
   

死刑廃止論につき討議中

 今日の大阪弁護士会常議員会では、死刑廃止に関する大阪弁護士会の意見書を提出すべきかどうかについて討議された(決議は、まだされていない)。

 死刑廃止かどうかは、その人の人生観にも関わる問題だと思う。

 司法試験受験の際に刑事政策を勉強したが、死刑廃止か存置かについては、それぞれの立場からもっともな意見があり、私としては、甲・乙つけがたかったように思う。

 議案の説明委員の先生は、法制度の問題として考えて欲しいと言っていたが、それぞれの人生観や哲学を切り離して考えることは、おそらくかなり難しいと、私は思った。

 

 

 

あるシミュレーション

 いつの頃からか、自己責任論が声高に叫ばれるようになってきたように感じる。

 

 自己責任論は一見正しそうに見えるし、それを強調する政治家や学者もいる。

 確かに、努力が必ず成果に反映される世界であれば、努力すれば必ず成功できるわけだし、努力しなければ成功できないわけだから、自己責任論にも一理あるように思う。しかし、残念ながら努力が必ず成果に反映される世界ではないと、多くの方が感じておられるはずだ。 

 私は、合格率2%だった熾烈な旧司法試験の経験から、必ずしも努力を重ね、実力がある人が合格するとは限らないという経験則を感じている。

 当時の旧司法試験論文式試験は7科目14問出題されていたが、そのうち10問のヤマを当てたという合格者も知っている。ヤマを当てたその受験生は「どうしよう、俺、合格してしまうかもしれん・・・」とびびっていたので、特に記憶に残っている。

 ただ、実力がどれだけ成果に反映されてるのかについては、経験則くらいしか指標がなかったため、あくまで感覚的にそうだろうという程度の論証しかできていなかったようにおもう。

 しかし、最近読んだ本の中で、ある経済学者が運の影響について行った面白いシミュレーションがあった。

 実力を98%、運を2%として、合計点で誰が勝者になるかをシミュレーションしたのだ。

例えば、実力90、運50の人の得点は

90×0.98+50×0.02=88.2+1=89.2点となる。

もちろん運の数値はランダムに決定される。

 その上で10万人のトーナメントを行った場合に、実力が最高の者が優勝する確率はどれくらいかというシミュレーションを行ったのだ。

 運がわずか2%しか働かないのだから、実力最高者の優勝確率は相当高いとお考えになるかもしれない。

 しかし、結果は、実力最高者が優勝したのは、僅か21.9%だったとのことである。

 もちろん、運が100点でも、その影響度は2%にすぎないから、点数的には2点しか違わない。したがって、もとの実力が相当高くないと、いくら運に恵まれても優勝は不可能だ。

 しかし、実力最高の者でも運の要素が絡めば、優勝できる確率が相当下がる。

 そして運の要素がゼロだと、言いきれる人はおそらくいないだろう。

 そうだとすれば、自己責任論は、その前提からして疑問が持たれてもおかしくはないように漠然と感じたりするのである。