「おにた」は、心の優しい鬼でした。


 しかし節分には、多くの家では、鬼を追い払う豆まきが行われます。


 「おにた」のいる家でも、やはり豆まきが始まり、「おにた」は、家を出ていきます。


 寒い節分の夜に、豆まきの音がしない家を探していた「おにた」は、病気のお母さんを看病する貧しい家の少女を見かけます。


 なんとかしてあげたいと思った「おにた」なのですが・・・・・・。

 

 

(できれば先に、この絵本をお読み下さることをお勧めします。)

 

 あとは、この絵本を読んで頂くべきでしょう。

 短いお話なのですが、「あまん きみこ」さんの文章が、子供だけではなく、大人の心にも、ズンと響きます。

 


 先入観に囚われていた場合、何気ない当たり前の言葉が他人を傷つけることもあります。すがたかたちは「おに」という存在であっても、こころは「おに」ではないこともあるのです。

 

「おににだっていろいろあるのにな。にんげんもいろいろいるみたいに。」

 

「おにた」のこのつぶやきを、なんの感情も抱かずに聞き流せる人は、おそらくいないでしょう。

 

 最後に少女の願いをかなえた「おにた」は、いなくなります。

 

 最後に残った「くろまめ」をどう考えるかは読み手に任されているように思います。

 

 「いわさき ちひろ」さんの絵も素晴らしく、「おにた」の気持ちを実に上手く表現しているように思えます。

 

 子供に、読み聞かせをしてあげながら、涙ぐんでしまったお母さんも多いのではないでしょうか。

 

 節分では、鬼を追い払う豆まきが付き物ですが、この本を読んだことのある人は、ひょっとして、豆まきをしないかもしれません。

 

 そういう絵本です。

 

 ポプラ社 1050円(税込)

英雄たちの栄光と挫折

NHK映像の世紀プレミアム第4集「英雄たちの栄光と挫折」

再放送があるなら必見。

私には、チェ・ゲバラが特に強く印象に残った。

もし私たちが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう"その通りだ"と。

全ての人間が自分の卑しさを乗り越えながら、前進することが可能なのだと答えよう。

                                       エルネスト・チェ・ゲバラ

 このような想いを持ち続けたゲバラという人間に興味を持ち、何十年か振りに伝記というジャンルの本を手に取ることになった。

そこで描かれる、

南米での北米資本による搾取の横行と、「人が人を搾取すること」を許せなかったゲバラ。

「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい」、と子供への手紙に書いたゲバラ。

 

 キューバ革命、カストロ、ゲバラのことを「共産主義」という、勝手な思い込みでひとまとめにして、これまで触れようともしてこなかった自分を少し後悔している。

 ゴルフは通常、3~4人が、一緒にプレーすることが多い。

 ところがゴルフをしたくても仲間や友人が3人集まらないこともある。そのような場合であっても、ゴルフをしたい人のために、一人でもゴルフをしたい人をネットで集めてゴルフをさせるよう取りはからっているのが、一人予約制度である。

 実際にS弁護士が利用してみると、なかなか良い制度であって、最初の恥ずかしさを乗り越えれば、初心者だってなんとかやっていける。みんなゴルフ好きなので話題にも事欠かないし、ゴルフを楽しみに来ている人ばかりということもあり、身勝手な方には、ほとんど会ったことがない。

 ゴルフ場にとっても、ゴルファーにとっても、メリットのある制度であって、考えたやつはえらいなぁと思う。

 現在では、バリューゴルフ・楽天・GDOなど、いくつかのサイトが一人予約制度を取り入れている。大体予約方法は似たようなかんじで、ゴルフをしたい日時とゴルフ場の地域を選択して検索すれば、一人予約を提供しているゴルフ場が表示され、その中から選択して申し込むという方式である。

 ところが、一つ気にくわないことがある。

 ゴルフ場によっては、一人目の予約者が女性である場合は、その女性のプレー料金を無料に設定しているところがあるのだ。

 そのようなゴルフ場の受付欄には、一人目のところには女性がダーッと予約を既に入れており、後に続く男性参加者を待ち受けている状況になっていることが殆どだ。

 重ねていうが、これが、S弁護士には気にくわない。

①まず、予約者を集めたいのなら男女問わず一人目を半額にする、プレー料金を下げる等の方法もあるはずで、特に一人目女性のプレー料金を無料にする理由はないように思われる。仮に一般的傾向として女性の収入が少ない場合が多いから、それに対する配慮だというのであれば、収入が少ない男性にだって割引すべきだから筋が通らない。そんなこんなで、差別的取扱に感じられて理不尽だとS弁護士は思っている。ついでにいうなら、男女差別撤廃を叫ぶのなら、女性が不当に有利に扱われている場合も、その有利な扱いを撤廃すべきと主張するのが筋だと思うが、そのような主張はあまり男女差別撤廃論者から聞いた記憶がないような気がする。仮に、有利なところは黙ったままで、不利なところだけを是正しろというのであるなら、ちょっと狡いのではないかと思ったりもする。

②そして、女性のプレー料金を無料にしたところで女性にゴルフ場を利用させてプレーさせるわけでから、施設の利用に関する負担が当然生じるわけで、それをゴルフ場が全て負担するとは思えないから、おそらく当該女性分の負担は、一緒にプレーする男性に負担させられるような仕組みになっている気がする。仮にそうだとすれば、なんで他人の楽しみの対価を自分が負担しなきゃならんのかが理解できない。

③なにより、「女性が入っているから男性も釣られて予約するだろう、どうせあなたは女性とゴルフしたいんでしょ?」というゴルフ場側の策略にみすみす引っかかったようで嫌だし、他人からスケベ心混じりでゴルフに来たと見られるようならば、心外だ。

④これは勝手な思い込みであまりいいたくないのだが、やはりスポーツにおいては、女性に負けたら恥ずかしいものだ、という変な思い込みが、S弁護士の心の中のどこかにあるようなのだ。もちろん、ゴルフは体力だけの勝負ではなくハンディやレディースティなど女性が男性と対等に戦える配慮もなされているし、始めてまだ2年のヒヨコが何をほざいているんだという面もあるのだが、それであっても女性に負かされると何故だか悔しい。

 このような理由、特に③、(少しは④?)の理由から、S弁護士は一人目女性無料のゴルフ場での一人予約は可能な限り避けるようにしている。

 しかし、一人予約の方とのラウンド中の昼食休憩時に、時折このような話題になるのであるが、中には、一人目予約の女性が20歳台、30歳代なら許せる、と仰る御仁もおられたりする。

 だとすれば、ゴルフ場の策略としては一人目女性無料の制度は、あながち間違っていないのかもしれず、S弁護士としては、女性とのことになると男性はやっぱり馬鹿なところがあったりするんだなぁということを再認識しつつ、そこが残念でもあり、またおかしかったりもするのである。

事後的救済社会と司法~2012.6.26記載

司法改革が叫ばれていた頃、確か、司法改革審議会かなんかの学者の方だったと思うが、「今後は規制緩和により、事後的救済社会になるから司法の役割が増大する」、という趣旨の発言をした人がいたように記憶している。一見もっともらしい意見だし、エライ学者さんがそう言うんだから、何となく説得されそうな気がする。


確かに規制緩和を進めると、経済活動がどんどん自由になり経済的利益の追求が主となってしまい経済的弱者の基本的人権が侵害されるなど、事後的に救済が必要になる問題が噴出してくる可能性はあるだろう。ここまでは学者さんの意見でも正しいように思う。
しかし、規制緩和によって生じた各種の問題が、本当に司法による事後的救済が可能なのか、本当に司法の役割が増大するのか、といわれると私には自信がない。むしろ逆のような気がするのだ。


いうまでもなく、日本において司法による解決は基本的には法律に則って行われなければならない。すなわち、法律家にとって、法律とは依るべき基準であり、また社会的弱者から依頼を受けた場合には、社会的強者と対等に戦うための武器でもある。
裁判所では、社会的弱者でも社会的強者でも全く平等に扱われ、どちらの主張が法原理的に正しいのかについての判断を受ける為に、争うことが可能である。


ところが成文法国家である日本においては、規制緩和を行おうとすれば、従前規制されていた部分に関する法律等を改廃することにならざるを得ない場合が多いように考えられる。そうすると、規制緩和は、同時に規制を緩和した部分において、法律という社会的弱者の武器をも奪う効果を持つように思われるのだ。


例として適切ではないかもしれないが、時間外労働には割増賃金を支払う必要があるという法律の条文がなくなってしまえば、いくら正規の時間を越えた残業だから割増賃金を払うべきだと主張しても、日本の司法での解決は困難だ。割増賃金を支払えという主張は、あくまでそうすべきである、そうして欲しい、という根拠のない主張に過ぎなくなり、裁判官も法律上の根拠がない以上、割増賃金を支払えとの判決を下せないことになるはずだ。


これが判例法の国なら違うのかもしれない。先ほどの例で言えば、規制緩和しても、従前の判例が残業では割増賃金を支払えと言っているのだから、割増賃金を支払うべし、という判決も不可能ではないように思われるからだ。この場合であれば間違いなく司法の役割は増大すると思われる。


すなわち、日本のような成文法の国では、規制緩和は経済的活動を促進し、経済活動による歪みを生じさせ各種の問題をおそらく確実に引き起こす可能性があるが、それと同時に、その問題に対する司法による救済手段を奪う可能性があるものであったのではないかと思われる。


したがって、規制緩和を進めれば進めるだけ、司法により事後的に救済する手段も同時になくすことが多いのだから、(特別な手当をしない限り)結局、弱者は救われない。結果的には司法の役割は増大しないのではないか。
そんなことも考えずに、規制緩和は事後的救済社会をもたらすと本当に考えていたのか、それとも、事後的救済ができなくなることを分かった上で、司法改革を進めるために敢えて事後的救済社会が来ると、もっともらしい主張をしていたのか。もし後者であれば、その主張の罪はかなり重いと思う。

安易な相続放棄は・・・危険かも?

弁護士をしていると、もちろん相続放棄の相談もある。

 マイナスの財産しかない被相続人が亡くなったので、相続放棄をして欲しいと相続人から頼まれることも多いが、実は、「相続放棄した方が良いと他の相続人から言われているのでそうしたい」、という相談もときどきある。

 よくよく確認してみると、相続財産の全体は教えてもらっていないのだが、先代の不動産の登記名義がまだ変更されていないから面倒だとか、相続するなら葬儀費用を負担しろと言われるなど、面倒なことに巻き込まれるかもしれないことばかりが、頭に浮かび、もういいや、となっている場合もある。

 そんなときに、相続人全員が放棄するのかと聞いてみると、実はそうではなく、誰か1人が相続することになっている場合だったこともある。

 冷静に考えれば、誰か1人が相続したいという以上、何らかのメリットが相続にあるとしか考えられない。

 そこで、きちんと相続財産を確認してから、決断した方が良いですよとアドバイスするのだが、なかなか正しく理解して頂ける人が多くはないのである。

 

 以前、相続人のうち1人が「俺が相続して面倒なことは全てやってやる」と言っているので、放棄したいと相談に来られた方がいたが、よくよく調べてみると、多少不動産が売りにくいものの、相続すれば600万円ほどの遺産が手に入る案件だった。

 あのまま放棄していれば、この相談者は600万円をもらい損ねることになったはずだ。

 

 安易に相続をすれば、借金を負わされる可能性があるという危険があるが、その反面、安易に相続放棄をすれば、本来もらえるべき遺産をもらえなくなる危険もあるのだ。

 特に誰か1人が面倒なことは全てやってやるから他の相続人は放棄しろという場合は注意が必要だ。

 後になって、悔いを残さないようにきちんと弁護士に入ってもらって、調査し、納得したうえで、放棄すべきなのだ。

 兄弟の言うことを安易に信じて放棄してしまい、後悔している相談者の方は何人も見てきた。相続放棄の申述は詐欺・強迫・錯誤等があれば争えるには争えるが、立証の問題もあって、通常、ひっくり返すことは極めて難しい。

 安易に相続放棄する危険についても、相続人はよく知っておくべきだと思うのだ。

日なたの匂い

最近あまり聞かれなくなってきたように思うが、日なたの匂いという言葉がある。

実際にどんな匂いかと問われると困るのだが、例えば、お日様に良く干した洗濯物、良く干した布団などから感じる匂いである。

秋の夕方近く、少し空気が冷たくなってきた頃、一日中干していた布団を取り入れ、ふかふかになった布団に顔を埋めると、じんわりとした暖かさと、日なたの匂いがして、安心するような気持ちになったものだ。

 実は、良く干した布団・洗濯物以外にも、日なたの匂いがするところに、私は小学生の頃に気付いたことがある。

 ところで当時、家で飼われていた紀州犬は、父親の一言で名前が「シロ」とされたメスだった。日本犬らしく忠実で、何故か散歩はたいてい私の仕事にされた。

 私は、あまり熱心に散歩をするたちではなかったが、ときには遠くまで一緒に歩いて出かけたものだ。うちの裏には、田畑があって、そのあぜ道を歩いたり、冬の田んぼでリードを外して遊んだりしたものだ。

 リードが外されて自由になると、シロは私の周りを全力で左右に走って私に飛びかかり、それを私が躱したり、身体ごと受け止めて投げ飛ばす、そんな遊びになるときもあった。もともと紀州犬は猟犬であり、その血が騒ぐのか、とても楽しそうに見えた。

 

 遊び疲れてあぜ道で座り込むと、シロも横に来て、お座りの姿勢をとった。

 季節は冬で、だんだん寒くなってくると、私はシロを、後ろから抱きかかえて暖をとることもした。シロはおとなしく、私に抱かれていた。

 そのとき、何気なくシロの頭の毛の中に顔を埋めてみると、日なたの匂いがした。

 じんわり暖かなシロの体温と、日なたの匂いを感じながら、何故か私は、少しばかり幸福感を味わっていたように思う。

 ときおり日なたの匂いをかぐと、シロの暖かさを想いだし、何故だか切なくなるときが、未だにある。

「てるみくらぶ」倒産についての雑感

 東京地裁に破産申立をした旅行会社「てるみくらぶ」に対する批判が強まっているようだ。

 確かに、お金を払っていながらその料金に見合ったサービスを受けられない点で被害者の方には本当に気の毒ではある。既に海外に出向かれた方々の安全な帰国を祈るばかりである。

 また、ちらっと見たTVのニュースでの社長会見の報道を見ると、報道陣から社長を非難するような質問が相次いでいるかのように見えた。
 
 それを見ながらボンヤリと考えた。
 以下、考えたことを雑感として書いてみる。

 私はごく一部の報道しかしらないし、情報に誤りがあるかもしれない。また、まとまった意見ではなく思いつきなので、誤解・矛盾等があってもご容赦頂きたい。


 誤解を招くかもしれないが、企業の倒産はやむを得ない場合がある。

 資本主義経済をとる以上、企業の倒産は避けられない。そのような経済体制を我々は是として選択していることを、まず、私達は理解するべきだ。
 特に小泉政権以降、自由競争、規制緩和の号令の下で、企業はより厳しい競争にさらされている。競争する以上、結果的には、勝者と敗者は必然的に現れざるをえない。
 自由競争社会は、敗者となるのは自己責任であり、またその敗者を選択して損害を被ったとしても、それは勝者を選ばなかったことが悪いのであって、ユーザーの自己責任である、とする考え方を含んでいるように思われる。

 果たして、競争に敗れ敗者となるのが自己責任であるとする、その考えは正しいのだろうか。


 勝者と敗者を分けるものは、一体何なのだろうか。努力すれば必ず勝者になれる社会であれば、敗者は努力しなかったということになるし、努力しさえすれば勝者になれるはずだから、勝敗は自己責任で構わないかもしれない。
 しかし、私の見る限りであるが、確かに圧倒的に努力の量で上回って勝者になる例もあるにはあるが、勝者も敗者も、その多くはそれなりに努力しているようにみえる。ただ、努力が実を結ばなかったとか、努力の方向が少しずれていたとか、たまたま勝者に運が味方したなど、不確実で気まぐれな何かによって、結果が左右されている場合も少なくないように思えるのだ。

 こう言ってしまえば、実も蓋もないが、不平等さ・不公正さを含んでいるのが世の中ではないだろうか。努力しなければ敗者となる可能性は高いが、努力したからといって勝者になれるとは限らない。また、ふとしたきっかけをつかんで勝者となるものもいる。そのような不平等さ・不公正さを必然的に含んでいるのが人の世なのではないのだろうか。
 成功している人の多くが努力していることはほぼ間違いないが、成功しなかった人・失敗してしまった人が努力していなかったとか間違っていたなどと決めつけることは誰にもできないはずだ。

 このような不平等・不公正さを内包する世の中であるならば、たまたま敗者の地位におかれたとしても、その事実だけから敗者を過度に非難することは正しいことではないように思われる。

 仕事柄、中小企業の倒産案件を手がけたことも何度かあるが、責任感が薄くさっさと破産を決定する経営者もいれば、関係者になんとか迷惑をかけないようにしようとして最後まで努力し続ける経営者の方もいる。どちらが人間的に信用できるかは、言うまでもない。

 しかし、最後まで迷惑をかけまいとして頑張る人の方が、結果的に倒産に至った際にはより多くの人に迷惑をかけてしまうという皮肉な結果になる場合が多いのだ。

 「てるみくらぶ」が行っていたといわれるキャッシュ一括払いキャンペーンを批判する意見もあるようだが、資金繰りが苦しくてキャッシュが必要な場合に、それを手に入れるための工夫をすることは、経営判断としては誤っているとまではいえないだろう。そこで得たキャッシュで会社を維持しつつ、資金繰りに奔走し、資金繰りができたのなら、その判断は正しかったことになる。一方、キャッシュを得て会社の延命を図ったものの、最後で金融機関が態度を変えて融資を断られるなどした場合にはステークホルダーに迷惑をかけることになる。
 結果論で経営判断を非難することは筋が違うように思える。

 確かに今回の倒産で被害を被られた方々は本当に気の毒であり、私自身も被害者であれば激怒しているであろうと思う。

 しかし、TV報道で見たように、報道陣が、代表者に対して見通しが甘かったのではないか、などという批判を浴びせて被害者の感情をあおる前に、何か考えなければならないことがあるようにも思うのだ。

 フェルマーの最終定理(フェルマーのさいしゅうていり)とは、3 以上の自然数nについて、xn+yn=znとなる 0 でない自然数 (x,y,z) の組み合わせがない、という定理のことである。 

 

 17世紀の数学者、フェルマーが残したこの難題に挑んだ、多くの数学者達のドラマを描いたのが、サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」である。

 フェルマー自身がこの問題について、「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここでは記すことはできない」と記述しており、幾多の数学者がこの難題に挑んでは跳ね返されてきた。~ウィキペディアによると、フェルマー自身の証明は不完全だった可能性が高く、勘違いだったのではないかとの指摘もあるそうだ。

 

 この難題は、ついに、360年経って、イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されるが、その証明に日本人数学者の功績が大きく影響していたことは、この本で初めて知った。

 

 日本人数学者による、谷山・志村予想(モジュラーでない楕円曲線は存在しないという予想)が、フェルマーの最終定理を証明する大きな鍵となっていたのである。

 

 しかし、研究中の谷山は挙式を数ヶ月後に控えながら自ら死を選んでしまう。 そして、二つ目の悲劇が起こる。谷山の婚約者だった女性が、谷山の後を追ったのである。

 

 その女性は、こう書き記していたという。

 

 「私たちは、何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません。」

 

 盟友を失いながらも志村は、更に研究を続け、多くの証拠を積み上げる。そして、証明こそ叶わなかったものの、単なる観測ではなく、「予想」の名に値する理論であることが受け入れられていき、最後には、フェルマーの最終定理の証明の鍵となっていく。

 

 私は、大学入試の頃以来、数学からは遠ざかっていたが、難しい数学のことなど分からなくても、数学者達のすさまじい程のドラマは読むものの胸を打つ。

 

 数学なんて・・・・、と毛嫌いされず、人間ドラマとして是非一読されることをお勧めしたい本である。

 

新潮文庫 税抜781円

月光~2008.5.21掲載

  時々帰宅する際に、鴨川に架かる橋から空を見上げます。時々、いい月が出ているときなどは、つい上を見ながら歩いてしまうことがあります。

 

 しかし、いくら京都といっても都会です。高原で見る夜空の月には、かないません。

 

 私は一度、秋の奥志賀高原の真夜中に、物凄い月夜に出会ってしまったことがあります。

 

 ほぼ満月だったのですが、標高1500mの澄み切った空気の中、雲一つない夜空に輝く月は、こういう表現が正しいのかわかりませんが、壮絶な明るさで、高原を照らしていました。

 誰もいない高原が、辺り一面見渡せ、木々の影さえ見えました。

 まるで、ひんやりと冷たい高原の空気、それ自体が、蒼い光を帯びているかのような明るさで、見渡す限りの高原を包んでいたのです。

 

 この空間を水晶の形に切り取って真っ暗な部屋に浮かべることができたら、どんなに美しいだろうか、柄にもなくそんなことを考えながら、しばし呆然と見とれてしまった私なのでした。

Portrait展

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先日、日弁連の代議員会に出席した。

普段はしゃんしゃんと終わるところ、珍しくいくつか意見や質問が出た代議員会だった。

その帰りに、銀座のギャラリー小柳で、開催されているportrait展を見に行った。

諏訪敦先生の作品が目当てだった。

少し分かりにくいところいあるギャラリーだが、HPの地図を参考にすればすぐ分かる。

エレベーターに乗って、降りたところが既に会場になっている。

私以外、誰もお客がいない。

諏訪先生の迫力のある大作を鑑賞するには絶好の、もったいないくらいの条件だ。

4月8日まで開催されている。

せっかくの機会をお見逃し無く。