大小の火消し

 弁護士の友人と話していて一致したのが、問題が小さいうちに問題の本質を見抜いて解決すると、本当は依頼者の利益はとても大きいのにあまり感謝されないね、ということだ。

 確かに、火事でも小さな火元を見つけて素早く消火した場合は、被害は最小限に収まる。つまり消火活動によって得られる利益は多大だ。しかし、その消火活動は大きく評価されない場合も多い。

 これに対して、大火事になって相当燃え上がってから消防車が多数出て鎮火させた場合、ほとんど消火活動で救われる財産は残っていないかもしれない。ところが、この場合の方が感謝される度合いは強いように思われる。

 このように、人は自分が現実にリスクに直面してみないと、問題となっている状況のリスクを感じ取れない(潜在的リスクを理解できない)傾向にあるようなのだ。

 それどころか、弁護士が問題の本質を見抜いて素早く解決した場合、依頼者は、自分でもそれくらい解決できたと思いこむ傾向もあるように思う。

 現に、先だって、自分で解決しようとして数年がかりで解決できなかった案件を持ち込まれ、数ヶ月で解決に持ち込んだ際に、依頼者から、「こんなものですか、自分でもできましたね。」と感想を言われたことがある。

 そういう依頼者だったので、弁護士費用についても、「数ヶ月しか働いていないではないか」と払い渋りをされた。

 その案件も、別の弁護士がやり方を間違えて訴訟などになり、数年がかりで解決すれば、おそらく感謝されただろうし弁護士費用も頂きやすいだろう。

 依頼者は、弁護士があっさり解決してしまうと、簡単な問題だったのだと誤解しやすい。その場合には自分で解決しようとしてできなかったことなどもう忘れているのだ。

 人間は全てを理解できているわけではないが、早い解決は依頼者にとって多大な利益をもたらしていることが多いこと、解決できたことに弁護士の能力が関係していることも多々あること、を忘れてもらいたくないな、と思うときもときにはあるのですね。

 文科省に設置されていた「法科大学院特別委員会」が、「法科大学院等特別委員会」として今年の3月頃から活動しているようだ。

 え? どこがちがうの? 同じじゃないの?

 という疑問もわくかもしれないが、ちゃんと法科大学院「等」と1文字違えてある。

 

 とはいえ、座長は井上正仁氏、座長代理は山本和彦氏と全く変わらず、委員も半分以上が留任だから、ほとんど委員会の名前が変わらなかったのと同じく、中身も大して変わっていないと思われる。

 「これまでの法科大学院等特別委員会における委員の主な意見」という資料は公開しているので、その資料をざっと見させて頂いた私の独断で言わせて頂ければ、法科大学院等特別委員会の目的は、ずばり、法科大学院制度の維持で、それ以外にない

 そして国民の皆様の為の法曹養成よりも、法科大学院制度維持が自己目的となり、予備試験制限を主張する場合等以外には当初の理念もどこかへすっとんでいるようだ

 意見によると、法科大学院が未修者を一年で既習者クラスまで引き上げるという制度設計が現実的ではなく無茶なものだった(若しくは、エライ教授の私が教えてやれば学生の実力を上げることなど簡単だと、ご自身の実力を過信していた)ことがようやく理解できたのか、今度は法曹養成の一部である基礎教育を法学部にやらせようと目論んでいるかのように見える

 また、意見によると多くの志願者を集めて法科大学院よりも高い司法試験合格率をたたき出す予備試験制度を目の仇とし、その制限を目論んでいるようだ。

 ところが、予備試験経由の法曹に問題があるとの指摘は現実にはない。現に、裁判官や検察官にも採用されているばかりではなく、大手の法律事務所でも予備試験経由の司法修習生を先を争って採用している。

 つまり、実務では予備試験経由の司法試験合格者を優秀な人材として採用しているのだ。予備試験経由の法曹に問題があればこのような実務の採用傾向が続くはずがないのである。言い換えれば、法科大学院が主張する法曹養成の理念等が、本当に実務法曹に必要不可欠なら、このような実務の採用傾向が続くはずはなく、実際の実務では法科大学院様が仰る法曹養成の理念などに、全く価値は置かれていないといっても言い過ぎではないだろう。

 実際に役立たない理念など、信じている人には大事なのかもしれないが、他の人から見れば、単なるイワシの頭である。

 実務に役立たない法曹養成の理念など無用の長物、それを教える必要があるとして税金を投入させることは血税の無駄使いだ。

 しかし法科大学院側は「法曹養成の理念に反する」と意味のない理念を振り回して、予備試験制度の制限を目指す姿勢があるようだ。

 理由は簡単だ。予備試験を制限すれば法曹になるには法科大学院に進学するしか道がなくなるからだ。そうなれば法科大学院の教員の生活も安泰ということになるだろうし、法科大学院卒業生の司法試験の合格率が予備試験経由の受験生に惨敗しているという醜態も、さらさなくてよくなるかもしれないからだ。

 このように法科大学院等特別委員会の目指すところは、既に国民のために優秀な法曹を生み出すという点にはなく、どうやって法科大学院を維持するのかという点に集中しているように思われる。

 

 ところで、文科省の委員会は委員会配付資料の公開や、議事要旨・議事録を公開しているが、法科大学院等特別委員会は、まだ一度も議事録を公開していない。

 主な意見をまとめることが可能である以上、きちんと議事については記録を有しているはずだ。

 一回2時間の会議のようだし、議事録作成にそんなに時間がかかるわけではないだろうから、是非とも早期に公開してもらいたい。

 私も、主な御意見などのように、誰がどうまとめたのか分からない資料ではなく、きちんとした御発言をお聞きしたいのだ。

 エライ学者の先生方が多いのだから、「法曹養成の理念が」等と勝手に抽象的な空中戦をやっているはずがないだろう。

 きっと予備試験経由の法曹に現実的な問題が生じている事例(そして法科大学院経由の法曹にはそのような問題が生じていない例)を多数集めるなどした上で、きちんとした事実に基づいて、法曹養成制度の理念が正しく、それに則った法科大学院が必須であると、きちんとスタートラインを確定してから議論に入っているにちがいない。

 まさか、将来の司法需要の予測を完全に外した司法制度改革審議会意見書に未だに則って、株を守る(くいぜをまもる)状態に陥っていたりはしないだろうと信じたいものだ。

 かつて、法科大学院制度を導入する際に、論証暗記型の答案が多いことを批判していた学者がいたが、現在の司法試験採点者の実感では、論証暗記型の答案が依然として見られるとのことだ。そればかりか、日本語作文能力すら危ういとの指摘もあるのだ。

 文科省の政治力を使って予備試験制限を画策するような状況ではないと思うのだが。

 とにかく、議事録の公開、よろしくお願いしますね。

本当にモテモテなのか法科大学院卒業生

 朝日新聞が11月28日付夕刊で、「企業にモテモテ 法科大学院」との記事を掲載している。

 記事によると、数年前から法務部門を強化する企業が、法科大学院の学生を対象に会社説明会を選考会を積極的に実施しているそうだ。法科大学院修了生の就職支援サイトを運営する会社(ジュリナビ)の部長と法科大学院院長が、法科大学院卒業生が社会で高く評価されていると説明している。

 本当にそうなのかと思って、「法科大学院卒業生 就職説明会」のワードでヤフー・グーグルで検索してみた。いずれも私が見る限り、上位50位以内には、企業からの就職説明会はヒットしなかった。むしろ、ジュリナビ等のポータルサイト、企業ではなく法科大学院が主宰する就職説明会の案内、法科大学院を卒業して司法試験に合格できなかった人の就職に苦労したブログなどが目につく。

 もちろん、企業が求人に関してインターネットに直接掲載せずに、ポータルサイトに求人を出している可能性もあるので、検索結果で全てが判断できるとはいわない。

 しかし、法科大学院に志願者が集まらないと、とても困る立場にあるはずの、ジュリナビの部長と法科大学院の院長の発言なので、自分の食い扶持に直結する法科大学院卒業生について、高めに評価して発言している、ポジショントークの可能性はそこそこあるように思う。

 経営法友会による法務部員増加の数字も出しているが、参加企業が増えただけかもしれないし、最も肝心な法科大学院卒業者が法務部員として増加しているのかという数字は出されていない。

 つまり、自分で絵を描いて自分で誉めている可能性も否定できないだろう。

 朝日新聞としても、広告を出してくれる法科大学院やジュリナビはお得意様だ。お得意様の機嫌を損ねるような内容の記事はあまり書けまい。

  司法試験に合格できなくても法科大学院の卒業生が、本当に企業から高く評価され引く手あまたなのであれば、一般の4年制大学卒業生よりも好待遇で募集されているのが当然のはずだし、それだけのメリットがあれば、たとえ司法試験に合格しなくても、法科大学院に進学する学生が増加の一途をたどってもおかしくない。

 ところが、現実には法科大学院志願者が激減し、文科省・法科大学院・日弁連が必死になって法科大学院受験者を増やそうと様々な費用をかけている。文科省・法科大学院は、法科大学院生を増やすために、予備試験を制限することまで考えているくらいなのだ。

 また、朝日新聞の記事は、任期付き公務員や企業内弁護士が増加していることを指摘して締めくくっているが、それは司法試験に合格してある程度の能力を有することを示したものに対する就職現象であって、司法試験に合格できなかった法科大学院卒業生に対する社会の評価とは関係がない。

 公務員と言えば聞こえは良いが、任期付きであるならば、任期が終われば放り出されかねない。とても安定した職場とは言えまい。

 近時の司法試験の採点雑感を見ると、法的三段論法以前に、日本語の作文能力を鍛え直せと採点者から酷評される状況にもある。

 この評価は、厳格な?法科大学院の修了認定を経て法科大学院を卒業し、司法試験を受験している受験生に対する評価であることを忘れてはならない。

 法科大学院生が本当にモテモテなのか、安易に記事に踊らされずに、しっかり見極める必要があるように思う。

結構迷惑な音

 どうでも良い話しなのだが、大阪弁護士会は研修受講義務がある。

 いつ頃決まったのか忘れたが、年間10単位(だったかな?)の研修を受講しなければならない。しかも、入室と退室の際にチェックを受けなくてはならない。私の母校である京大では、私が通っていた時代には語学と体育以外は出席などとらなかったが、弁護士は弁護士会から、京大の学生ほども信用されていないらしい。

 交通事故相談やひまわり相談等を担当するためには指定された研修の受講が条件となっている。そのため、仕事につながりそうな研修であったりすると、かなりの人数が詰めかけることも多い。研修受講歴を元に、専門表示を行おうとする動きも弁護士会にはあるようだ。

 実のところ、研修義務を果たすためだけに出席しているような人も実際はいて、スマホばかり見てる人とか、パソコンを持ち込んで書面を作っている人も実はいる。だから、研修受講歴だけで専門表示を行うことは、大して意味がないように私は思っている。

 

 しかし今日の本題はここからだ。

 スマホを見ているくらいならまだいい。問題はパソコンを持ち込んで書面を作っている人だ。タッチタイピングの音は本人にとってはそうでもないようだが、周囲で聞かされる側からすると相当うるさい。

 ノートパソコンのタイプ音も、静かに打てば、ニャラニャラ・パシャパシャという音で済む。それでも気になってしまうのだが、ときおり、仇のようにキーボードを高らかに叩きまくる人がいる。しかも、書面作成で気分が乗ってきたのか、エンターキーを思いっきりぶっ叩くので、パチーンと結構な騒音になる。本人は気持ちいいのかもしれないが、研修を受講している身としては、イラッとくる。

 確かに、時間に追われて書面を作らなければならない場合もあるだろうし、研修のメモをパソコンでとっておきたいという人もいるだろう。

 ただ、みんなが研修を聞きに来ているのだから、前者の人は研修受講を遠慮すべきだし、後者の人でもノートパソコンのタイプ音は、結構うるさいことを自覚して遠慮して欲しいと私は思っている。

 研修にキーボード付きのパソコンの持ち込みを禁止して欲しい!と思っている人は、多分私だけではないはずだ。。。。。と思うんだけどなぁ。

 

映画 「ビハインド・ザ・コーヴ」

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(イントロダクション)
「2010年、日本の和歌山県太地町でのイルカ漁を題材にしたドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』がアカデミー賞を受賞した。作品は全体としては一方的にイルカ漁を批判するものであった。「全てが真実ではない」「ドラマ仕立てで嘘だ」「隠しカメラやカメラの技術で海の色を変えたり、事実と違う」、という声が当初より多くの人々から聞こえてきた。それ以上に重要なのは、それなのに、なぜ今まで『ザ・コーヴ』に対する日本からの反論映画がなかったのかということだ。

 捕鯨問題を紐解くため個人的に始めた調査は、必然的に彼女を論議の中心であり『ザ・コーヴ』の舞台となった和歌山県太地町へ導くこととなった。そしてこの問題を探ることから、偶発的に『ザ・コーヴ』の反証映画が生まれたのだ。

 『ビハインド・ザ・コーヴ』は、捕鯨論争における両派の人々へのインタビューを基軸に、太地町の問題だけでなく、これまで民間まで届いてこなかった政治的側面の実情にも迫っている。『ザ・コーヴ』が提示できなかった"鯨類"とされるイルカ・クジラ問題の包括的な映像を発表せんとする、監督・八木景子の他に類を見ない試みである。」

公式HP http://behindthecove.com/ から引用。

(以下、坂野の雑駁な感想である。)


 私が和歌山県太地町出身で捕鯨に賛成であることは、ずいぶん前からブログにも記載してきたし、映画「ザ・コーヴ」がドキュメンタリー映画とは到底いえない偏向映画であることも指摘したことがあったはずだ。


 ただ、私自身、正月にたまに帰省することくらいしかないので、シーシェパードらの悪辣な活動振りは、はっきりと目にしたことはなかった。
 ふとしたことから、「ビハインド・ザ・コーヴ」の存在を知った私は、直接公式HPより映画のDVDを買い求めた。


 映画は、私が見る限り中立の立場でインタビューを中心に組み立てられているように見える。シーシェパードの連中の活動により太地町の観光にも打撃が与えられていることもこの映画は浮き彫りにしていく。
 「映像の借りは映像で返す」との記載もあったが、決して内容的に偏向している映画ではない。偏向した映画を作成すれば確かに、ある程度のインパクトは増すだろう。しかし、それでは結局偏向した主張のぶつかり合いになって、なんの解決にもつながらない。
 おそらく、八木監督はそう考えたのだろう。
 八木監督の手法は、双方の主張を取り入れつつ、淡々と事実と証言を積み重ねて、次第に根本の問題を浮き彫りにしていくものである。このような手法こそ、ドキュメンタリー映画にとって正しい方法であり、「ザ・コーヴ」がアカデミー賞を取れるのであれば、八木監督の、この映画であればなおさらその栄誉に浴しても良いはずではないかと私には思えた。
 また、八木監督のお人柄のせいなのか、かなりきわどいところまで出演者が喋ってしまっているのも興味深いところである。

 映画の中にはシーシェパード代表の発言も、ザ・コーヴの監督の発言も入っている。捕鯨に反対する連中の発言は、ほぼ一様に自分の価値観を絶対視しているように感じられた
 自分の価値観(捕鯨反対)は正しいのだから、それに従わない行動は野蛮であり、改めるべきだという尊大な態度が常に見え隠れしているようだ。
 捕鯨以外にも生きていける手段(例えばホエールウオッチング等)があるのだから、捕鯨をやめてそちらの手段をとるべきである、という主張も、他人の人生の生き方に関して勝手に決めつけるに等しい傲慢な主張である。ヨーロッパの羊飼いに対し、羊の展示等でも生活できる手段があるから、羊飼いを辞めろと彼らはいうのだろうか。


 イギリスではキツネ狩りを辞めているから、日本でも捕鯨を辞めるべきだとの発言もあったように記憶するが、キツネ狩りは生活のためや、食用にするためではなくスポーツとして行われていたものだ。全く次元の違う捕獲行為を、動物の捕獲という一点では同じだから、同じように辞めるべきだとの主張は詭弁以外の何物でもない。


 クジラが泳いでいる姿を見たいという人の要望が高尚であって尊重されるべきであり、他方、クジラを食べたいという人の要望が野蛮であって、尊重されるべきでないと何故言えるのか。牛を神の使いとして崇める風習があるインドに育った人が、牛が歩いている姿を見たいという要望をもっていたとして、欧米で大量消費されている牛を食べたいという人達の欲望よりも尊重されなくてよいと何故言えるのか。


 誰が彼らの価値観の正しさを証明するのだろうか。自分がそう信じ込んでいるだけなら宗教と変わりはしない。そして歴史上、宗教の違いで大量殺戮が生じたように、他者に不寛容な態度は、他者との共存を難しくするものであることは間違いない。


 かつて捕鯨国であったアメリカも、ある時期から反捕鯨運動をとるようになるが、その動機はベトナム戦争の環境破壊問題から目をそらせるためだったという事実(もちろんその証拠も映画の中で提示される)もあるし、反捕鯨の立場をとりながらも、ある時期まで宇宙開発に不可欠であったマッコウクジラの鯨油について、アメリカは日本から輸入していた事実もあるそうだ。
 その際に、輸入品の名目としては「高級アルコール」と名前をつけ反捕鯨の立場と矛盾しないような小細工も弄していたという。


 更に現在ではクジラが増えすぎて、アメリカの沿岸での船舶とクジラの衝突事故の多発や、水産資源の減少も指摘されているそうだ。クジラを保護しすぎてホエールウオッチングに興じる人達が満足する一方で、イワシやサンマが枯渇して食べられなくなり、水産資源を生活の糧としている人達の生活が脅かされるというのでは本末転倒ではないだろうか(もちろんそうなっても陸上の蛋白源を中心とする欧米社会はそう大きな打撃は受けないだろうが。)。


 アメリカ人がアメリカリョコウバトを営利目的で絶滅させたことは以前書いたが、アメリカと並び、反捕鯨の急先鋒たるオーストラリアでは、コアラを毛皮目的で乱獲して絶滅寸前まで追い込んだ歴史があるし、私から見れば可愛いカンガルーだって大量に殺してきている。
 日本では50年近く前に捕獲が禁止されている、ジュゴンですらオーストラリアでは現在でも先住民に捕獲を許しているそうだ。
 では、ジュゴンは可愛くないのか?ジュゴンは可愛くなくても頭がよくないから食用として捕獲してもいいのか?


 自国の先住民の食文化は尊重するが、他国の食文化は尊重しなくても良いのか?

 
 結局彼らの価値観からすれば、自分達に必要なもの・都合の良いものは捕獲してもOKであり、自分達に不要のものであれば可愛いからとか、頭が良いからなどと理由にならない理由を述べて捕獲に反対しているようにすら感じられる。


 私は、映画の中に出てくる太地町の町並みを懐かしく感じ、そちらに気をとられてしまったところもあり、また一度見ただけなので、誤解もあるかもしれないが、それを措くとしても、様々な示唆を与えてくれる素晴らしい映画である。


 

 公式HPhttp://behindthecove.com/ から問い合わせて購入すると、監督のサイン入りパンフレットなどがもらえる特典(私はサイン入りパンフレットを希望したところ、可愛いクジラのイラストとサインが記入されたパンフレットが同封されてきた。)もあるようだ。

捕鯨賛成の方だけではなく捕鯨反対の方にも、是非ともご覧になることをお薦めしたい。

公式HPでは税別4400円+送料300円 ・ アマゾンでは4272円で販売中。

ベネチアの猫

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sakano0077.jpg

お店のショウウインドーに陣取り、何かを考えているような猫。

20年ほど前のベネチアで撮影。

この頃はまだ、デジカメがなかったので(少なくとも持っていなかったので)、これを撮影したら次にもっと良いシャッターチャンスが来たときにフィルムがなくなるんじゃないかと、手持ちのフィルムを心配しながら撮影していたように思う。

ずいぶんとカメラや写真も様変わりしたものだと思う。

自分は変わっていないつもりでも、私の意識を置いてきぼりにしたまま、確実に時代は進んでいってしまうものなのだ。

気になる指摘

 平成29年司法試験の採点実感
http://www.moj.go.jp/jinji/shihoushiken/jinji08_00154.html

に、ざっと目を通しているところだが、今年も、かなり気になる指摘があるように思う。


 確か、昨年の採点実感に関する意見(民事系科目第1問)において、次のような指摘があった。

 「法律家になるためには,具体的な事案に対して適用されるべき法規範を見つけ出すことができなければならない。そのためには,多数の者が登場する事例においても2人ずつの関係に分解し,そのそれぞれについて契約関係の有無を調べることが出発点となる。」(平成28年司法試験の採点実感に関する意見【民事系科目第1問】より。)

 上記の指摘は、分かりやすく言うと、「法律家は具体的な問題が生じた場合にどの法律のどの条文(若しくは法規範)を使えば、解決につながる可能性があるのか分かっていなければならない。そのためには多くの人が登場しても2人ずつの関係に分解して、契約関係があるか、なければどのような主張が可能なのか分析しなくてはならない」という指摘である。


 この指摘は、あったり前のことであり、いやしくも法律家になろうとする者が、ある問題を法的に解決しようとする場合に、どの法律のどの条文を見ればいいのか(若しくはどの法規範を使えばいいのか)分からなければ話にならんだろう。


 また、問題解決のためにどの法律を使おうかと考える際に、多数の当事者が入り交じったままの状態では法的関係が錯綜して、どう分析すればいいのか分かりにくい。

 法的関係を解きほぐして単純化して分析するために、2人ずつの関係に分解することは、私達法曹としては常識以前に司法試験受験時代から本能的に身についているやり方である。


 しかし、法科大学院卒業者が多くを占めているはずの、司法試験受験生の多くが法的分析のスタートラインにも立てずにつまづいているので、採点者がわざわざ、あったり前のことをご丁寧に説明してくれているのだ。


 こんな説明を、採点者からされなくてはならないことを、法科大学院の教育者は恥と思わなければならないだろう。法的分析のスタートラインにすら立てない能力しか身に付けさせることができずに卒業させているのだから。


 さらに、今年の、採点実感の民事系科目第1問p6には次のような指摘がなされている。


 「今年度は,具体的な事案に適用されるべき法規範を選択する際に,適切とは言い難い選択をしたために低い評価しか得られなかった答案が目に付いた。」


 要するに、ある問題を法的に解決する場合に、その問題を適切に解決するために適切とは言い難い、いわばトンチンカンな法規範を適用して解決しようとしている受験生が相当数いたということだ


 一応問題文(民事系第1問・設問1)を見てみたが、多数当事者の登場する場面ではなかったし、問題文が相当丁寧に誘導しているので、解決のために使う法的構成は、おそらくすぐに分かるはずだ。


 また、この程度の問題(民事系第1問・設問1)で、どの法的構成を使えばいいのか分からないとか、使う法的構成を誤るようであれば、はっきり言って実務家としては箸にも棒にもかからないレベルだ。当然法律家としては使いものにならないし、資格を与えてはダメだろう。


 確かに、司法試験は長時間にわたる苛酷な試験ではあり、疲労や緊張から受験生は心神耗弱状態になりかねない。しかし、それを斟酌したとしても、こんな基礎的な法規範の運用もできない受験生を合格させていれば、国民の皆様に被害が及ぶことは必定だ。


 風邪を手術で治そうとしても無理だし、メスと鉗子を間違えるようでは手術にもなるまい。それでも手術で治そうと強行すれば、患者に被害を与えるだけだ。

 おそらく、そのような答案には低い評価しかついてないと思う。しかし、このような答案が目につくレベルの受験母集団から、3~4人に1人の合格者が生まれるのだ。


 司法試験は本当に選別機能を有しているのか、閣議決定等に縛られて、合格させてはならないレベルの受験生を合格させているのではないか等の点について、厳格に精査がなされる必要があると思う。

 受験生の答案の開示(特定が嫌なら、答案の原本ではなくワープロでべた打ちしたものでも良いはずだ)を受けて、検討するべき時期が来ているのではないのだろうか。

「ダナエ」 藤原伊織 著~2009.5.21掲載

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世界的名声を得た画家、宇佐美が、義父を描いた肖像画が切り裂かれ、硫酸をかけられる事件が発生する。その事件は、エルミタージュ美術館で起きた、レンブラントの「ダナエ」毀損事件と酷似していた。犯行を伝える女性の声は、これは予行演習だと告げる。宇佐美は義父への危害を心配するが・・・・・。

 

 

 「う~ん読むんじゃなかった、少なくとも電車の中では。」

 

 そう思いながら、藤原伊織の残した最後の中・短編集に収録されたこの作品に、私はまたも、やられてしまった。眼鏡をはずしハンカチを手にせざるを得なかったのだ。

 

 この作品の前半部分で、主人公が愛読する、萩原朔太郎の「乃木坂倶楽部」という詩の一部が引用される。

 

 わが思惟するものは何ぞや

 すでに人生の虚妄に疲れて

 今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな

 我れは何物をも喪失せず

 また一切を失ひ尽くせり。

 

 宇佐見は、どうしようもなかった過去を忘れ去れずにいる。若さの純粋さ故に別れるという解決方法しか選び得なかった、元妻の面影を苦い思いと共に抱きつつ、今を生きている。傍目には成功している宇佐見。全てを手に入れたかのように見える宇佐見だが、間違いなく宇佐見は、傷つき、その傷を癒せずにいる。若さ故に何の力も持ち得なかった自分の無力さ、若さゆえに思い至れなかった、元妻の自分への思いに対して。

 しかし、世間にその存在すら認められていなかった当時の彼に何ができただろう。やはりどうしようもなかったのか。いや、何かできたはずではなかったか。自ら別れることを選択した彼女に対して・・・。

 彼の苦渋に満ちた記憶は、上記の朔太郎の詩の後ろ2行、「我れは何物をも喪失せず」 「また一切を失ひ尽くせり。」に集約されている。 

 

 そして、事件が明らかになるにつれ、上記の朔太郎の詩の続きである次の部分が小説の中で展開されるように私には思われる。

(中略)

 虚空を翔け行く鳥のごとく

 情緒もまた久しき過去に消え去るべし。 

 

 しかし、宇佐見には消し去ることはできないのだ。おそらく永遠に。文中で 宇佐美自身が語っている。

 

「・・・それでも、もしそれまでのずっと以前に知っていたとしても、僕になにかできたかどうか、それがわからない。救いの手すら差しのべられたかどうかがわからない。なにしろ、僕は無一文でどんな力もなかった。いまもわからないでいる。当時、結論の出るわけもなかった。答えのないあの問いは、一生、後悔として残るだろう・・・・・・」

 

 このような男を描かせたら、藤原伊織は抜群の冴えを見せる。

 

 私自身決してドラマティックな過去を持つわけではないが、決して答えのない問いを問い続けなければならない宇佐美に激しく共感させられてしまう。

 

 ただ、個人的に言えば、ラスト10行はなくても良かったように思う。私の勝手な邪推であるが、最後の10行について、藤原伊織は、付け加えようかどうか迷ったのではないだろうか。その上で、ラスト10行を付け加え、主人公宇佐美に微かではあるが確かな希望を与えてあげたのではないか。的外れもいいところかもしれないが、私にはどうも、そのように思えて仕方がないのである。

 

 ・・・・・・・・私がハンカチを取り出し、目をぬぐう間、隣の乗客は、一瞬、訝しげに私のほうを向き、その後何も気づかなかったフリをしてくれたようである。その誰だかわからない乗客に、少しの優しさを感じたのは、「ダナエ」を読んだからなのかもしれない。

 

 そんな小説である。 

諏訪 敦  個展 2011年以降/未完

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 10月7日から11月5日まで、福岡市の三菱地所アルティアム(イムズ8F)で、開催されていた、諏訪先生の個展を11月3日に見ることができた。

 できるだけ人が少ない時間に見たいと思ったため、当日、開館前から入り口前で待ち、午前10時の開館と同時にイムズに入った。
 エレベーターで8階まで上がると、すぐに場所が分かった。
 おそらく一番乗りで会場には入れたはずだ。なんと、写真撮影も許されていた。かつて訪れたルーブル美術館でもフラッシュを焚かなければ写真撮影は許されていたし、この配慮は有難い。

 思ったよりもたくさんの作品が展示されているようだ。諏訪先生の作品を、たくさん鑑賞できるので、遠かったけれども来て良かったと思う。
 しかしそれと同時に、一度に鑑賞しきれるか自信が持てない。

 もちろん昨今は、印刷技術の向上で素晴らしい画集ができるようにはなっている。しかし、本物の作品が持つ力は、やはり本物を直接見ないと感じにくい気がする。

 星にたとえるなら、画家が直接描いた作品は、恒星だ。直接対峙すると、画家が作品に込めた様々な想いをエネルギーにして、作品が自ら青白く輝きつつ外部へと、何かを放射し続ける何らかの力を秘めているかのように、感じられるときがある。
 画集に収録された作品は、美しいものであっても、そこまでの力を感じることはあまり無い。月や惑星が恒星の光を反射するように、美しい光を放ちながらも自ら輝く力までは感じにくく、自らの光の元となっている恒星の燃焼を想像させる、いわば間接的な輝きを感じさせることが多い気がする。

 今回の個展で、私が強い印象を受けたのは、一番奥に展示されていた「HARBIN 1945 WINTER」 と、それと対になって展示されていた「Yorishiro」、山本美香の肖像画、「日本人は木を植えた」だった。

「HARBIN 1945 WINTER」は、NHKのETV特集
【忘れられた人々の肖像 ~画家・諏訪敦 "満州難民"を描く~】
で作成過程を特集されていた作品だ。
TVで、ご覧になった方も多いと思うので、後は、機会があればTV番組と、直接作品をご覧になって下さいと申しあげるしかない。

「Yorishiro」は、「HARBIN 1945 WINTER」と似た構図であるが、「HARBIN 1945 WINTER」と異なり、女性らしい柔らかな肉体が描かれている。女性は目を閉じており、通常であれば眠っている女性を描いた作品と捉えるのが素直かもしれない。


 しかし、私には生命を有している女性を描いた作品なのかどうか、分からなかった。

 モノトーンの画面の中に女性が横たえられ、目は閉じている。女性らしい柔らかな肉体が描かれているが、手や足等に描かれた白い紡錘状のなにかは、天に向かって肉体から、何らかの気配が抜け出ようとしているようにも見える。逆に(はっきりとは知らないが、私が勝手にイメージしている)キリスト教でいうところの聖痕が、女性の肉体に刻印されつつあるようにも見えなくもない。


 そして、この女性の肉体は、おそらく限りない静寂の下におかれているように感じられる。

 思うに、生きている間の人間の肉体は、全身の細胞で有機的に関連した精緻な生命活動が行われている。そして、生命を失った瞬間に精緻な生命活動は終わりを告げ、人間の身体はタンパク質の集合体に化し、緩やかに腐敗しつつ無に向かう。

 その死の瞬間の前後で、肉体の組成自体はほぼ変わらないのだろう。しかし、死の瞬間に、肉体の意味は全く変わってしまう。

 作者の意図とは全く異なるかもしれない、私の勝手な想像だが、「Yorishiro」は、命が失われる瞬間、若しくはその前後の時間を凝縮して、画面に封じ込めたのではないかと感じられた。

 しかし、それはこの女性の個体としての生命の終わりを意味するが、女性の生み出した生命の終わりまでをも意味するものではない。この女性を依り代として、生まれ出た生命はこの後も続いていくのだ。この女性はいずれ無に帰るが、その生きた証は、新たな生命によって受け継がれていく。

 「HARBIN 1945 WINTER」と対になって展示されていたことから、さらに深読みすれば、作者は、終戦直後の満州で飢餓状態で病死した自らの祖母に対し無念の気持ちと、祖母が依り代となって生命をつなげてくれた事実の重さに限りない感謝の気持ちを持っていたのではないか。

 そして、既に亡くなった祖母の、死の瞬間にまで時間を遡って、健康な状態で祖母が本来有していたはずの美しい肉体を取り戻させ、この絵によって、再度祖母の死の瞬間をやり直そうとしたのかもしれない。

 私の邪推が、万が一に的を射ていたとして、それを作者の自慰行為に過ぎないと、評価することも不可能ではないだろう。

 しかし、それでも私は、作者の、祖母に対する敬虔な祈りにも似た澄みきった想いを作品から感じ、その想いに心を打たれるのである。

 「Yorishiro」を見ながら、そして「Yorishiro」の前に置かれたソファにすわり、「Yorishiro」を見ずに、作品の存在感を感じながら、私は、そのようなことをボンヤリと考えていた。


(続くかも)

yorishiro.jpg

「HARBIN 1945 WINTER」(左) と、それと対になって展示されていた「Yorishiro」(右)

源氏の勝利至上主義?と弁護士業

 以前にもブログに書いたが(アーカイブス・2009.12.16参照)、私は平家物語の影響からか、源平合戦に関しては平家の方に肩入れする傾向にある。

 特に壇ノ浦合戦における平知盛の「見るべき程のことをば見つ。いまはただ自害せん。」という言葉にしびれていたりもする。

 その傾向は、平家が、源氏と異なり、勝ちさえすればどんな手段を用いても良いという戦をしなかった、ということをTV番組で知って、さらに強まった。 

 

  当時、戦は自分たちの所属を明示して自分は平家なら平家の赤旗を、源氏なら源氏の白旗を掲げて、正々堂々と戦うのが、伝統でありしきたりだった。しかし、源氏軍は、赤旗を掲げて平家の軍を油断させて近寄り、そこで白旗にすげ替えて、至近距離から一気に押しつぶす作戦をとった。

 源氏のとった手段は、いわば、だまし討ちであった。

 

  さらに、一ノ谷の合戦では、朝廷の停戦勧告が両軍に出されたため、平家は権威ある朝廷の勧告であり、どの軍もそれに従うのが通例だったことから、源氏も従うはずと、臨戦態勢を解除した。そこへ、停戦勧告を無視した源氏軍が鵯越の逆落としで急襲をかけたのだ。

 源氏のとった手段は、いわば停戦協定違反であった。

 

  壇ノ浦では、当時戦闘に参加しない船の漕ぎ手は非戦闘員であり、攻撃を加えることは卑劣な手段と考えられていたところ、源氏は平家の船足を止めるため、積極的に漕ぎ手を狙い、平家の船の動きを封じる作戦をとった。

 源氏のとった手段は、いわば許されていなかった非戦闘員に対する無差別攻撃であった。

  

 確かに、最終的に勝利を収めたのは、源氏だった。

 しかし、勝敗が全てであり、勝ちさえすれば、いかなる卑劣な手段をとっても良い、という源氏の発想は、私にはどうしても違和感が残った。

 たとえ負けたにせよ、人道にもとる作戦をとらなかった平家を私は好きなのだ。

 

 それはさておき、源平合戦から800年以上経過した現在、経済の面では、規制緩和、自由競争が推し進められ、勝ちさえすれば良いという風潮は、ますます強まっているように感じられる。

 儲けることが至上の命題となり、市場で成功できない(利益を上げられなかった)事業者は、市場から退場せざるを得なくなる。

 その場合、あくまで利益が上げられたかどうか、という結果だけが重視され、利益を上げるに至った経緯は大して顧みられることはない。

 その波は、弁護士の急激な増員とともに、弁護士業界にも及んでいる。

 過払い案件に特化し巨大化した事務所が、ビジネス的には成功者として、もてはやされたりもしていたが、過払い事務所の中には、過払いの見込めない案件や、本来最も救済すべきヤミ金被害者などは、対応が面倒で儲けにならないため、受任を拒否していたところもあったと聞いている。

 確かに、大々的に広告を行って顧客を集め、その中から手間がかからず利益率が高い案件だけを選別して受任し、その他は受任しないというやり方は、ビジネスの視点(儲け至上主義)から見れば正しい。しかし、本当に困った状況に陥っており、弁護士の助力を必要としていたのは受任を断られた、過払いの見込めない債務者や、ヤミ金被害者ではなかったか。

 昨今流行のB型肝炎訴訟・給付金請求も、広告によって顧客を集め、処理が簡単な事案だけを選別して受任する事務所もある。その際に、「事案が複雑であり手間がかかるので、請求は不可能ではないが当事務所では難しい」と正しい説明をすればいいのだが、大々的に「経験豊富な当事務所へ」などと広告している事務所のメンツ維持のためか、請求できるはずの事案でも、「その事案では、請求は無理です」と誤った説明をして帰す事務所もあるそうだ。

 そのような事務所に断られがっかりしながらも、念のため別の事務所に聞いてみたらあっさり受任してもらい、給付金を得られたという話を複数の弁護士から聞いた。もし説明を受けた法律事務所の言葉を信じていたら、本来請求できた人が請求を断念することにもなりかねない。一見、大きな問題がある事務所のようにも思われるが(虚偽を伝えて断るやり方に問題がある点を除けば)、処理が簡単で儲かる事案を選別して受任することは、ビジネスの視点からは正しいことになるのだ。

 法律事務所も弁護士も自由競争しろと、マスコミや規制緩和万歳の学者は無責任に言うが、それは、自由競争の中で他所よりも儲けて生き残れということだ。だとすれば、可能な限り利益率を高める必要があるし、他の事務所が儲けに走っている中で、儲からないが国民の救済になる活動をしていたら、自由競争下では生き残れる確率は低くなるばかりだ。(加えて、弁護士業において自由競争原理が働かないことについては何度もこのブログで述べてきた。)

 もう手遅れかもしれないが、弁護士たちがこぞってビジネス路線に舵を切る可能性を高めることが、本当に国民の皆様にとってプラスになるのか、よくよく考えてみる必要があるように、私は漠然と感じていたりもするのである。