デジカメの功罪

 私は、海外に出かけたときなどにデジカメで写真を撮る。たいていは風景写真が多く、スナップ写真を撮ることはごく希だ。 

 といっても、高度な技が使える一眼レフなどはややこしくて到底使えないので、望遠の効くコンパクトデジカメといわれる部類のカメラを使っている。

 ずいぶん前から年賀状には自分の撮った写真を使っているので、嬉しいことに毎年楽しみにして下さっている方もいるようだ。賞めてくれる方も多く、あるときなど、小さな出版社の方から写真集を出しませんかとお世辞をいわれたこともある。

 とはいえ、私自身、海外旅行に初めて出かけたときに、固定焦点のコンパクトカメラでフィルムを入れて撮っていた時に撮影できた写真に、まだ並ぶ写真が撮れないでいるように感じている。

 まだ、海外にでかけてもおそるおそる街を歩いていた頃に、良いなと思う被写体を見つけても、あと何枚分しかフィルムがない・・・・ここで使って良いのか・・・などと悩みながら撮影した写真に敵わない気がするのだ。

 もちろん、海外旅行に慣れていなくて無心に新鮮な気持ちのまま撮影できていたということも多分にあるだろう。

 それと同時に、今のデジカメでは、取り敢えず撮っておいて後で見ればいいや。と気楽にシャッターを切りすぎることも理由ではないかとも感じている。

 確かにデジカメは、メモリーの範囲内でたくさん撮影可能であるし、失敗したらすぐ消去すれば足りるので、簡単だしお気楽だ。フィルムでの撮影のように、現像料がかかるわけでもなく、現像してみるまでどう写っているのか分からないということもない。

 しかし、お気楽であるが故に、心を震わせる風景に出会ったときに、とにかく撮っておこうと何枚も撮影してしまうのだが、そのようなときに私の心の中のどこかで、その風景と真剣に向き合いきれていない部分が残ってしまうようのだ。

 

 もちろん便利なデジカメなので、もうフィルムを使ったカメラに戻ることは現実にはできない。しかし、どこかで被写体に真剣かつ無心に向き合うことができていない気がする自分に、少し残念な思いがすることもまた事実だったりするのである。