辞任した取締役の責任と「権利義務取締役」に対する信義則・権利濫用(福岡地判令和6年10月11日)
1. はじめに
取締役を辞任したにもかかわらず、後任者が選任されないまま放置され、その間に会社や新経営陣が旧取締役の名義を悪用して不正行為を行った場合、辞任した旧取締役は会社に対して善管注意義務違反(任務懈怠)の責任を負うのでしょうか。
今回は、辞任後の役員(会社法346条1項の権利義務取締役)に対する会社の損害賠償請求が、信義則違反および権利の濫用として棄却された裁判例(福岡地方裁判所令和6年10月11日判決・判例タイムズ1538号243頁)をご紹介します。
2. 事案の概要
本件は、保育園経営等を行う原告会社が、元代表取締役である被告に対し、詐欺行為による損害の賠償を求めた事案です。
事案の経過は以下の通りです。
・被告は、原告会社の設立以来の代表取締役であり、実質的な1人株主でした。
・被告は、原告会社の全株式を他社(代表者A)に売却し、その際、代表取締役を辞任して印鑑や通帳をAに引き渡しました。
・しかし、Aは後任の取締役を選任・登記することなく、辞任した被告の代表者名義を悪用し、架空の企業主導型保育事業を理由として助成金(交付金)を申請し、約1億3000万円を騙し取りました(本件交付金詐欺)。
・その後、助成金を交付した団体(F協会)から損害賠償請求訴訟を提起された原告会社は、約1億2600万円の支払を命じる判決を受け、同判決は確定しました。
・原告会社の株主が裁判所の株式譲渡命令により変更された後、原告会社は被告に対し、主位的に共同不法行為に基づく損害賠償請求(3000万円)、予備的に会社法423条1項に基づく任務懈怠責任(1500万円)を求めて提訴しました。
本件の主な争点
本件で裁判所が判断を迫られた主な争点は以下の通りです。
・権利義務取締役該当性:被告の辞任により役員に欠員が生じた結果、被告は会社法346条1項により引き続き取締役としての権利義務を有していたといえるか(後任選任に必要な合理的期間の経過により同条の適用は制限されるか)。
・信義則・権利濫用:自ら後任を選任せず詐欺を行った原告会社が、後任がいないことを理由に辞任した被告の責任(会社法423条1項)を追及することは、信義則違反ないし権利濫用に当たるか。
◎権利義務取締役(会社法346条1項)とは
会社法346条1項は、取締役の退任や辞任により、定款や法律で定められた役員の人数に欠員が生じた場合、新たに選任された取締役が就任するまで、退任した元取締役が引き続き取締役としての権利義務を有する旨を定めています。
これは、役員が不在となることで会社の業務執行や代表行為がストップしてしまう事態を防ぐための制度です。辞任届を出して役職を退いたつもりであっても、後任者が就任しない限り、法律上は依然として取締役としての善管注意義務や忠実義務を負い続けることになるため、実務上非常に大きなリスクを孕んでいます。
3. 本判決の判断
裁判所(福岡地方裁判所令和4年(ワ)第1379号、令和6年10月11日判決、判例タイムズ1538号243頁)は、原告の請求をいずれも棄却しました。
(1)主位的請求(共同不法行為)について 被告がAと共同して不法行為を実行したと認めるに足りる証拠はなく、刑事処分も受けていないこと等から、不法行為責任は否定されました。
(2)予備的請求(会社法423条1項に基づく任務懈怠責任)について 予備的請求においては、以下の2点(権利義務取締役の該当性、および信義則・権利濫用)が重要な論点となりました。
まず、会社法346条1項は、役員に欠員が生じた場合、新たに選任された役員が就任するまで、退任した役員がなお役員としての権利義務を有すると規定しています。被告側は、権利義務取締役として責任を負うのは後任選任に必要な合理的期間に限られる旨を主張しましたが、裁判所はこのような期間制限による同条の適用除外を認めず、被告は本件交付金詐欺の実施期間中も会社法346条1項により取締役としての権利義務を引き続き有していたと認定しました。
しかし、裁判所は結論として、原告会社による被告への責任追及を許しませんでした。
具体的には、当時の原告会社は詐欺を実行したAが支配する会社であり、Aと原告会社は実質的に同一視できる関係にあったこと、原告会社(A)は自ら後任取締役を選任すべき義務(会社法976条22号)を怠り、かつ被告の辞任未登記状態を悪用して詐欺を行ったことなどを指摘しました。その上で、自ら原因を作り出し、かつ不正を行った原告会社が、後任が選任されていないことを理由に被告の任務懈怠責任(会社法423条1項)を追及することは、一種の矛盾挙動であり、信義則(民法1条2項)に反し、権利の濫用(民法1条3項)に当たると判断しました。この結論は、その後に原告会社の株主が交代した場合であっても変わらないとされています。
4. 実務上のポイントと弁護士の視点
本判決は、事業承継やM&A、役員退任の実務において極めて示唆に富む事例です。
(1)「辞任したから安心」ではない法律上のリスク
第一に、取締役を辞任しても自動的に法的責任から完全に解放されるわけではないという点に注意が必要です。学説においては、辞任後に相当期間が経過した場合や役員としての権利行使・義務追及が皆無であった場合には、会社法346条1項の適用自体を制限し、権利義務取締役としての立場から離脱できるとする見解が有力に主張されています。しかし、裁判例(本判決を含む)は一貫して同条の適用自体は制限せず、形式的には留任義務を負わせた上で、重過失の否定や信義則・権利濫用の法理を用いて個別に解決を図る傾向にあります。
ここで特に留意すべきは、本判決において損害賠償責任が否定されたのは「自ら不正を行った会社自身が、辞任した旧取締役を訴えてきた」という極めて特殊な構図があったからに過ぎないという点です。もし本件において、被害を受けた第三者(F協会等)や会社の債権者から、役員としての善管注意義務違反を理由に直接責任(会社法429条1項)を追及されていた場合には、結論が異なり旧取締役が巨額の損害賠償責任を免れなかった可能性も否定できません。「辞任届を出したから後任が決まっていなくても自分には関係ない」と過信することは極めて危険です。
(2)実務において旧取締役が取るべき自衛手段
M&Aや株式譲渡に伴い取締役を辞任する際、旧取締役としては自身の身を守るために以下の予防策および事後対策を徹底することが不可欠です。
予防策:
契約書における厳格な条項の策定 株式譲渡契約(SPA)や役員退任合意書を交わす際、単に辞任届を提出するだけでなく、「買主側に対し、引渡日と同日付で後任取締役を選任し、〇日以内に変更登記手続を完了させる義務」を明記すべきです。さらに、同義務の不履行に対する違約金条項や、登記未了に起因して旧取締役に生じた損害(弁護士費用や第三者からの請求を含む)を買主側が全面補償する旨の補償条項を定めておくことが有効な牽制となります。
事後対策:
放置された場合の法的手続と実務的対応 万が一、辞任後に後任が選任されず登記も放置されていることを知った場合は、直ちに法的措置を講じる必要があります。具体的な手段としては以下の通りです。
① 辞任登記請求訴訟の提起
会社に対し、辞任に基づく役員変更登記手続を求める訴訟を提起します(本判決の被告もこの訴訟を起こし、認容判決を得ていました)。勝訴判決を得ることで、会社側の協力が得られない場合でも単独で登記手続を進めることが可能となります。
② 仮取締役(一時取締役)選任の申立て
会社法346条2項に基づき、裁判所に対して仮取締役の選任を申し立てます。利害関係人として後任者を補充させることで、自らの権利義務取締役としての立場を解消することができます。
③ 金融機関等への通知と名義悪用の防止
辞任後も自らの代表名義や印鑑が不正利用されるおそれがある場合は、速やかに口座開設している金融機関や取引先等に対し、代表者を辞任した旨および今後の届出印無効の旨を通知(内容証明郵便等)し、実務上の不利益を防ぐ措置を講じることが重要です。
当事務所では、M&Aや事業承継に伴う役員辞任の契約交渉から、退任後の辞任登記放置トラブル、権利義務取締役の責任追及に関する対応まで幅広くご支援しております。お困りの際はお気軽にご相談ください。
シェアする